抄録

金尾文淵堂をめぐる人々 その一

  ――著者と出版者 



はじめに


社史はおろか、一篇の図書目録さえ残さずに消えていった出版社は膨大な数に上る、というよりも出版社のほとんどがそうなのである。後世に残るものは限られた古書だが、そのときに本は「著者」のものになり、出版社の名は忘れ去られる。本の文化が崩れかけている現代、紙の本が出版者によって生み出される過程を、著者と出版社(編集者)、出版者と造本関係者、出版者と読者(読者は未来の著者でもある)の関係の中に探ろうと思う。本をめぐる文化とはどのような形姿をとり、どのように形成されるのか、作り手たちのネットワークの中に検討し直してみたい。今や失われた出版社が重要なのである。

 

一、 金尾文淵堂という書肆


明治四〇年の出版広告から
出版社の歴史は刊行物の歴史である。金尾文淵堂はいかなる本を出版したのか。まずは手がかりとして明治四〇年(一九〇七)に刊行された横瀬夜雨著『二十八宿』の巻末広告に掲げられた文淵堂の出版物を見よう(論文参照)。明治四〇年という年は文淵堂にとって転換期のひとつで、ここには前半期の主要な本が掲げられている。

ここで、すでに判明している金尾文淵堂の概略を整理すると、

  1. 広告に見られるように文学、宗教、美術、旅行案内をおもな出版内容とする出版社であった。
  2. 金尾種次郎(明治一二年・一八七九生〜昭和二二年・一九四七没)は、大阪市東区南本町四丁目三六番地で生れた。父は敦賀屋為七、江戸期からつづく仏教書の版元兼書店を営んでいた。明治二七年に父が死去、一六歳で家督を相続する。俳句など文学好きの種次郎は自らの趣向にしたがって明治三〇年代に新たな出版活動を開始した。彼は出版の素人ではなかったが、家の財産をすべて自分の出版活動につぎ込んだ。
  3. 金尾文淵堂の本は凝った造本、ていねいで美しい本として後世に知られる。売って稼ぐより造本にかける支出のほうが大きく、出版社経営はつねに苦しく、倒産も経験したが、その後も出版活動を続けた。
  4. 金尾文淵堂は文芸出版から出発したが、同じころ同様の傾向で出版を展開した出版社に佐藤義亮の新潮社(雑誌『新声』の創刊ののち、明治三七年・一九〇四創業)や和田篤太郎の春陽堂(明治一一年に書店を二〇年に出版を開始、雑誌「新小説」)などがある。
  5. 金尾種次郎は明治三七年ころ東京へ出て、大正一二年の大震災まで東京で出版活動を続け、震災後に大阪に戻り、その後は大阪を中心に活動、第二次大戦後の昭和二二年に病没し、文淵堂の出版も終った。

金尾文淵堂についての研究


本の為めに産を興し、貴族院に納った成金党も少なくはないが、一方には本の為めに倒産破産の惨境に陥った者も相当に在る。後者の代表的な者は倚人伝中の随一にも掲ぐべき人に金尾文淵堂があった。明治大正を通じて、真に費用のかけられた本らしい本を出版したのは文淵堂を第一位に押すべきである。この金尾は未だ大阪辺に存命と思うが、出版良心に富むというより、本は良いものにせねばならぬという一種の信仰者であった。

と述べるのは斎藤昌三(「本のはなし」昭和八年、のち『閑板書国巡礼記』所収 東洋文庫)である。


 このように出版の歴史において金尾文淵堂が重要だとする後世の発言は数多く、また薄田泣菫・与謝野晶子・徳富蘆花・広津和郎ら文淵堂とかかわりのあった同時代の作家や、小川菊松ら出版同業者の思い出話も断片的ではあるが多数残されている。

 金尾自身が書き残した記録はたいへん少なく、文淵堂の内実と全体像を捉えることはなかなか困難だが、いくつかの研究が試みられている。第一は足立巻一「文淵堂・金尾種次郎覚書――大阪時代」(『文学』一九八一年一二月号、岩波書店)であり、書肆金尾文淵堂のルーツを明らかにしたことが特に評価されよう。次に田熊渭津子「金尾種次郎年譜考」(『混沌』一九九〇年6月、中尾松泉堂書店)がある。この論文は主として蘆花関連の資料を集めて文淵堂の東京時代を明らかにしたものである。また高橋輝次「金尾文淵堂 その人と仕事」上・下(『SANPAN』一九九八年一〇月・九九年一月、エディトリアルデザイン研究所)も金尾種次郎の編集者としての仕事ぶりに迫ろうとしている。これらによって金尾文淵堂の歴史的輪郭はかなりはっきりと捉えることができる。

 さらに金尾が大阪で明治三二年に発刊した文芸雑誌『ふた葉』と、三三年に『ふた葉』を改題し発展させた雑誌『小天地』についての書誌的な研究がある。藤田福夫「文学雑誌『ふた葉』総目録とその内容概観」(『椙山女学園大学研究論集』五号、一九七四年)、同「文学雑誌『小天地』総目録と金尾文淵堂」(『金沢大学教育学部紀要』一二号・一三号、一九六六年)である。  
雑誌『小天地』はいままでほとんど注目されず、坪内祐三は、『近代文学雑誌事典』(至文堂)の「小天地」の項目は、石川啄木が出して一号雑誌で終わった同名の『小天地』しか記述せず、しかもその図版として金尾文淵堂の『小天地』の表紙写真が掲載されている誤りを指摘している(『ちくま』一九九六年一一月号、筑摩書房)。

三度の危機がターニングポイント
 文淵堂の歴史は、経営危機に見舞われた三度の転換期をはさむ四つの時期に分けて考えることができる。
第一のピンチは、雑誌『小天地』が終刊する明治三六年である。
第一期は、明治二七年に一六歳の金尾種次郎が父の死後家督を受け継ぎ独自に出版業をはじめてから、文学雑誌『ふた葉』を創刊し(三二年)、薄田泣菫の処女詩集『暮笛集』を出版し、翌年から『小天地』を発行し続けるが、三六年、児玉花外『社会主義詩集』の発禁などが重なり、ついに経済的に行き詰まり『小天地』を終刊するまでの大阪時代である。

 第二の危機は、明治四〇年(一九〇七)末ころである。
大阪で行き詰まった金尾がおそらく三七年末に東京へ出て、大倉桃郎の懸賞当選小説『琵琶歌』の版権を元に同書を刊行して成功する三八年から第二期ははじまる。その後綱島梁川・与謝野晶子・木下尚江・岩野泡鳴・薄田泣菫・清沢満之・柳川春葉・菊池幽芳らの本を次々と刊行し、文淵堂らしいラインナップを形成する約四年間である。年間の出版点数が二〇点を越える年もある(現時点での調査の結果だが、明治三七〜三八年は合わせて一一点、三九年は二七点、四〇年は二四点)。しかし、四〇年秋に急速に経営状態が悪化、その原因は、望月信亨編「仏教大辞典」の費用増大と刊行の遅れによるものだった。四一年に経営はついに破綻する。

 第三の危機は、大正一〇年の徳富蘆花・愛子『日本から日本へ』の刊行の後である。
この第三期は約一八年と長い。明治四〇年の危機の後、四一年と四二年に出版点数は激減し東京書籍商組合を脱退するなど苦境の時期だが、ツルゲーネフ/二葉亭四迷訳の『うき草』や内田魯庵の著書や翻訳本を刊行する。四三年には空海・親鸞などの伝記の刊行を手始めに徐々に復活していく。文学書では田村俊子の注目作『あきらめ』(明治四四)、のちに「与謝野源氏」で定評を得る晶子の『新訳源氏ものがたり』4巻(明治四五)、柳川春葉の『生さぬなか』(大正二)、北原白秋『印度更紗』同『白金之独楽』(大正三)など注目すべき本がある。旅行案内には『畿内見物』大和の巻・京都の巻(明治四四)・大阪の巻(明治四五)や『阪神名勝図会』(赤松麟作他画、大正五)、『非水図案集』(杉浦非水画、大正四)、『関東大震災画帖』(大正一二)などの美術書も注目すべきものだ。

 この時期の終わりを画する書物は、徳富蘆花・愛子夫妻の欧州旅行記、『日本から日本へ』二巻(大正一〇年)の刊行である。これ以降年間発行点数が急激に減る。文学書はほとんど消えてしまう。『日本から日本へ』は金尾種次郎が徳富蘆花に懇願して本にした、長いつきあいの末のたった一つの成果だったが、商売としても造本としても失敗した。蘆花と金尾の関係は著者と出版者の一つのかたちを良く表している。大正一二年の関東大震災で金尾は東京を去り、大阪市西成区千本通りに移る。蘆花との関係については後に述べる。
 金尾種次郎の晩年のうち、昭和四年から昭和一三年までは管見の限り出版書目が二点しか見当たらない。世が円本ブームに沸いた昭和初期の約一〇年間は出版から遠ざかっていた。しかし、昭和一三年に入ると与謝野晶子の『新新訳源氏物語』全六巻を刊行し、太平洋戦争開始から敗戦の翌々年までに一五点の本(仏教書が多い)を刊行する。金尾文淵種次郎は大阪空襲を避けて京都西ノ京町に移り、昭和二二年の一月、狭心症をおこして永眠した。

 

二、金尾文淵堂の著者人脈

 文淵堂の歴史を構成する著者たちを経営危機の区切りに配してみると、文淵堂と特に関係の深かったいくつかの著者群が浮かび上がってくる。
一つは平尾不孤を中心とするグループであり、第二は幼なじみの俳句同好会、第三は角田浩々歌客など新聞社系の人物群、第四は社会主義者やキリスト者などの社会派、第五は装丁や挿画を担当した画家たちのグループ、第六は与謝野家と徳富蘆花、第七は新仏教運動に関わった仏教学者たちである。

平尾不孤と薄田泣菫
 平尾不孤(一八七四〜一九〇五)は金尾文淵堂の初期の人脈を考える上で決定的に重要な人物である。不孤は明治七年、備中新見の生れ、本名徳五郎。岡山中学で薄田泣菫と出会い生涯の友となる。泣菫より一級上で校友会誌「尚志会雑誌」で活躍していた。のち早稲田の東京専門学校に学び、東京で評論活動を行っていたが、明治三二年の五月、『造士新聞』(*12)の編集者に迎えられて大阪に来る。明治三二年といえばこの一月に金尾種次郎は『ふた葉』を創刊し、九月発行の同誌第二巻三号に平尾不孤は「英文学史の研究を促す」と題して評論を寄せているので、文芸を志す青年同士として、また同じ編集者として金尾種次郎との交流がすぐに始まっていたことがわかる。そして不孤は金尾に友人の若き詩人薄田泣菫を紹介した。

泣菫と暮笛集 泣菫薄田淳介(一八七七〜一九四五)は、岡山県浅口郡、現在の倉敷市連島町に生れた。岡山中学を二年で中退し(軍人上がりの体操教師と合わず)、京都から東京へ出て漢学塾に寄寓し、独学でワーズワースやバイロンの英詩や漢詩文を学ぶ。新体詩を自ら書き、文淵堂から『暮笛集』『白羊宮』などの詩集を刊行。大正元年から大阪毎日新聞社記者となり、詩作からは遠ざかるが新聞コラム「茶話」などが話題になる。パーキンソン氏病による手足の不自由のため、大正一二年に退社、晩年は随筆家として過ごした。

 松村緑『薄田泣菫考』(教育出版センター、一九七七年)によれば、泣菫はすでに明治三〇年五月、後藤宙外の雑誌『新著月刊』に詩を載せて文壇にデビューし、おおむね好評をえた。後藤宙外は『新小説』(春陽堂)の編集者に移ったのちも『新小説』に泣菫の詩を載せ、この新人の作を帝大系の大町桂月の寄稿よりも上位に置き、『帝国文学』関係者を刺激し、『帝国文学』第五巻九の雑報欄で匿名筆者が、後藤宙外を論難し、泣菫を誹謗する記事を載せた。

これを読んで怒ったのは大阪にいた親友の平尾不孤だった。早速自分の編集する『造士新聞』第三四号に「帝国文学記者に与ふるの書」を掲げ、後藤宙外も『新小説』に平尾不孤の文を引用し、学閥で文学を評する『帝国文学』記者に対する批判の論陣を張った。この文の中で平尾不孤は泣菫の詩集を金尾文淵堂で出版すると発表した。「われ等は彼の不遇を黙視するに偲びず、今秋文淵堂金尾思西君と、彼が為に一巻の詩集を出版せんことを図る。談既に熟して其刊行近きにあらんとす、『暮笛集』は即ち是れ」と。

 不孤にこの話を持ち込まれた金尾種次郎はその熱情と泣菫の作品に動かされた。二〇歳になったばかりの金尾は損を覚悟で引き受けた。これが文淵堂で発行した最初の文学書である。薄田泣菫が金尾種次郎に与えた書簡は次の通りだが、ここには出版者への謝辞をこえたものがある。

わが詩まことにいふに足るべきものなし、されどわが詩のわが調べを保つて、胸より出で候はんほどは、永く君の厚意を忘れまじく候。われ書肆としての君にわが詩を託せず、今日よりわが為に尽くさるる懇切の詞友としての君に託す。君は平尾不孤君を介して原稿料のことをいへど、原稿料を払うべくば、君の懇情の消えざらん限りは唯三銭にても足り候。わが詩世に読まれず、書肆としての君に迷惑を及ぼすこともあらば、われは何物をも要せざるべく候。君が厚意につけ入りて、われを満たさんなどの卑しき心はつゆこの胸にやどらず候。(後藤宙外「『帝国文学』記者に答ふ」『新小説』第四年一二号)


 このように平尾不孤は薄田泣菫と金尾種次郎を結び合わせ、以後、泣菫の『ゆく春』『白羊宮』『白玉姫』など詩集や詩文集の主要なものはすべて金尾文淵堂から刊行される。さらに泣菫は金尾に懇請されて三三年に創刊する雑誌『小天地』の編集責任者に就き、平尾不孤、角田浩々歌客とともに編集にあたる。金尾はかなりな高給で泣菫を雇い泣菫は文淵堂の二階に住みついてその任にあたった。

 平尾不孤の悲劇 平尾不孤は、大阪の文壇人の狭量さや実質の無さをいつも批判しながら、『小天地』に文芸・社会評論や小説を寄稿し続け、泣菫も編集のかたわら作品を発表する。しかし、不孤は明治三四年夏、東京在住の女子学生との恋愛関係を『萬朝報』に書き立てられ世間の非難の的となり、友人たちの意見も聞かずに毎日新聞を辞し無謀な上京を敢行した。東京では金港堂の雑誌『文芸界』の編集者の職につきその女性と結婚したが やがて結核の病状が悪化して職を辞し、執筆に専念する。『読売新聞』の懸賞脚本に当選し賞金を手にするが、助けた妻にその金をもって逃げられ、悲痛のうちに京都に移る。孤独のうちに明治三八年五月、不孤は三三歳の若さで世を去る。
この恋愛事件と不孤の悲劇的な晩年については、泣菫が随筆「恋妻であり敵であった」(『太陽は草の香がする』所収)で書いている。また、『新小説』の平尾不孤追悼文集には児玉花外、高須梅渓(芳次郎)、中村春雨、斎藤弔花、平野柏蔭が書き、次号に綱島梁川が弔文をよせている。(『新小説』明治三八年七月号、春陽堂)

 金尾文淵堂が近代出版をはじめるスタート時点において、平尾不孤は欠かすことのできない人物であった。激しく一徹で頑固な若き批評家の早世は文淵堂にとっても惜しむべき出来事だったが、不孤は文淵堂が薄田泣菫や児玉花外、高安月郊、綱島梁川、鈴木鼓村、角田浩々歌客ら特色ある執筆人脈を形成していくそのかなめにあったのである。

児玉花外と『社会主義詩集』
 平尾不孤が金尾と結びつけた詩人がもう一人いる。児玉花外(一八七四から一九四三)である。今では明治大学校歌「白雲なびく駿河台」の作詞でわずかに知られるだけだろう。児玉花外は明治七年京都に生まれた。本名伝八、父は医業を営む。同志社予科中退、仙台の東華学校に入学するが二五年に廃校となり、札幌農学校予科に転学、新渡戸稲造の講義を受けるが中退、その後早稲田の東京専門学校文科に入学、坪内逍遥のもとで詩作をはじめる。ここで多くの友人を持つが三〇年に中途退学し、京都に帰る。明治三一年から内村鑑三の『東京独立雑誌』を主な詩の発表の場とした。

 平尾不孤とは明治三二年、文学研究の土曜会ではじめて知り合う。花外がはじめて金尾文淵堂の『ふた葉』に登場するのは、翌三三年三月の号の「泉の辺にて」で、同年六月の第三巻三月号にも「牧童」の詩を寄せている。『小天地』には三四年「雪に放ちし鼠」をはじめとして三六年の終刊まで何度か登場している。明治三五年四月から二年間、大阪に居住し「評論之評論」記者として働いていたので、不孤を通じて金尾種次郎や薄田泣菫が花外と頻繁に交流したのは三三年と三十五、六年ころだろう。

 明治三六年八月に児玉花外は『社会主義詩集』を金尾文淵堂から刊行するが、本書は発売後ただちに発禁となりすべてを没収された。本書が刊行され発禁になった翌年、『花外詩集』(児玉花外が発行、金尾文淵堂発売)を刊行する。この詩集には巻末に「同情録」という文集が付され、詩集が発禁となったことに対する諸家のコメントが集められている。

 この同情録は五九人が執筆、幸徳秋水も詩も寄せるが、金尾文淵堂とかかわりの深い人物が顔を揃えていることに注意したい。五九名の内、文淵堂で執筆している人物は次の通りである。岩野泡鳴、河井酔茗、堺枯川、木下尚江、角田浩々歌客、山本露葉、前田林外、松崎天民、三木天遊、高安月郊、高須梅渓、後藤宙外、平尾不孤、綱島梁川、安部磯雄、平木白星、小栗風葉、薄田泣菫、中村春雨、鈴木鼓村、大町桂月 (『社会主義詩集』岡野他家夫編 日本評論社 昭和二四年より)。

 『社会主義詩集』出版・発禁の後、明治三八年から四〇年頃までは、詩集「ゆく雲」(隆文館、明治三九年)などの出版や、新聞・文芸各誌に旺盛な文筆活動をおこなうが、大正期に入ると『日本英雄物語』(中央書院)など大衆的な読み物の執筆が多くなる。大正一二年に明治大学の校歌「白雲なびく」の作詞をするが、最初の結婚に失敗し、再婚の妻は病死、関東大震災で原稿をすべて焼くなど、昭和期に入るともはや花外の名を知る人も一般には少なくなり、アルコール中毒がすすんで保護され、最後は東京市養育院で亡くなった(昭和一八年)。

綱島梁川
 金尾文淵堂の刊行物で成功した書物の一つが綱島梁川『病間録』(明治三八年)だった。 
文学・美学・美術をはじめとして倫理・宗教まで幅ひろい評論活動を展開し注目を集めていた梁川の宗教思想関係のエッセイを集めた『病間録』は多くの読者を得た。

 梁川は、明治六年(一八七三)岡山県に生れ、一四歳のときキリスト教の洗礼を受ける。東京専門学校に学び、坪内逍遥の家に寄寓し『早稲田文学』の編集を手伝いながら、逍遥や大西祝らの直接的な指導を受ける。二三歳のとき結核に冒され、以後病魔と闘いつつ猛勉強をし、宗教に関する論考・エッセイを発表。『病間録』に収められた「余が見神の実験」は彼の宗教的体験を綴ったもので、宗教熱・哲学熱の横溢していた当時の人々の注目を集め、是非論をまき起こした。しかし、明治四〇年九月に惜しまれつつ三四歳の若さで永眠した。

 綱島梁川の『病間録』の出版とその死は、当時の知識人をはじめ多くの人々の話題になった。キリスト者を中心に梁川会が各地に作られ、彼の「見神の記」をめぐって仏教学者を含めて議論が起った。金尾文淵堂は死後それらを編集して刊行(『病間録批評集』『見神論評』)した。熱心な仏教徒だった金尾がキリスト教の本を出すなど、その後の宗教思想書の出版を方向づける意味で綱島梁川の存在は大きかったといえるだろう。
江戸時代以来の仏教書店だった金尾文淵堂を受け継ぎ、近代の出版社として再スタートを切ったころの執筆者人脈を、平尾不孤と薄田泣菫、児玉花外、綱島梁川の関係の中に見てきた。かれらは今では忘れられた存在だが、文淵堂の出版物には彼らの、明治三〇年代の文芸観や社会観、信仰や思想が渦を巻いていることはたしかだ。金尾が彼らに注目し、ここを出発点として出版活動を展開し、出版社としての性格をはっきりとさせていった。

 金尾種次郎をふくめて、当時(明治三〇年代前半)彼らは皆な二〇歳代であった。早世した不孤や梁川、やがて泣菫も病(パーキンソン氏病)に冒されていき、花外は悲憤慷慨しつつ巷に沈殿していく。金尾は雑誌『小天地』に家財産のすべてをつぎ込み、破産に近い状態で東京へと転進していく。

幼なじみの俳句青年たち
 ここで一旦過去にさかのぼり、金尾種次郎が平尾不孤らに出会う以前のことに触れなければならない。明治三二年一月に『ふた葉』を創刊したとき、金尾種次郎は一九歳で、自ら「思西」あるいは「春草」と号する俳句・短歌好みの文学青年だった。そのころの仲間に青木月斗(兎)、山中北渚がおり、彼らは金尾種次郎と同年生れで、創刊時の『ふた葉』の編集仲間だった。画家の赤松麟作も一歳年上だが彼らの仲間で、明治二九年の秋、東京美術学校(芸大)に入学が決まり大阪から発つ時のこととして、「小学校の友人青木新護(月斗)山中種蔵(北渚)金尾種次郎(文淵堂)(皆故人に成つてしまつてゐる)に送られて上京」と記すので(「自伝絵巻やっとこ どっこい」昭和二四年)、子どものころからの友人だったことがわかる。   彼らは『ふた葉』刊行後の四月に結成した雑誌支援団体「文淵会」の主力メンバーになった。彼らは文淵堂の二階をたまり場として始終競吟し、文淵会の春季・夏季大会を企画し立て、郊外へ遊山に出かけたことが『ふた葉』の記事からわかる。「文淵会」は各地に支部も作っていた。

 青木月斗(一八七九〜一九四九)は家が薬種業で大阪薬学校卒業後、道修町に住み『ふた葉』の創刊に協力する。薬業を続けながら俳誌「同人」を経営、やがて大阪俳壇の重鎮となる。「大阪俳壇は文淵堂の二階から出てゐた」と自ら語っているように(「鬼史と北渚と余」『同人』大正九年)、金尾文淵堂の二階は文学青年たちのたまり場で、『ふた葉』は当初、俳句を中心とする投書雑誌であった。三二年夏には、彼らが師と仰ぐ子規の病気平癒のための祈祷会(為果物八題花二題を課して運座)を文淵堂にて徹夜で行った(青木月斗「夢の如し」『子規全集』別巻二回想の子規一、講談社、一九七五年収載)。正岡子規の本が文淵堂で後に刊行されるが、子規と金尾との出会いは「文淵会」の俳句仲間と深く関わっている。

 このように明治三二年当初、金尾種次郎は俳句・短歌の同人誌的な雑誌を作ろうとして『ふた葉』を創刊した。この俳句路線は基本的には継承されるが、先述したように平尾不孤ら俳人グループとは異なる毛色の人間たちと出会うことによって『ふた葉』は大きく変貌していく。

『ふた葉』と『小天地』の編集方針
 『ふた葉』は明治三二年一月に創刊され、終刊は翌三三年六月、その三ヵ月後の一〇月に『小天地』が創刊される。『小天地』の編集形式と『ふた葉』の第三巻(明治三三年一月)以降の形式がほぼ同じであることから、『小天地』は『ふた葉』を改題刊行したものと考えられている。

『ふた葉』は金尾と少年時代の友人、青木月斗や山中北渚、松村鬼史ら俳句青年たちで組織した「文淵会」を中心に編集がおこなわれ、発足当時は投稿雑誌的・同人誌的性格が強く、なかでも俳句のウェイトが大きかった。文淵会への高額(一円)出金者に、月斗と鬼史が名を連ねているのもそのことを物語っている(『ふた葉』一巻五号の文淵会例会記事)。
 『ふた葉』の記事に変化が表れ、俳句同人たちの編集体制にわずかな変化が見えるのは、二巻二号(明治三二年八月)からである。この号には角田浩々歌客(『大毎』文芸記者。後述)の文淵会講演「翻訳文学『夜航船』について」の記録と作品が掲載され、「俳壇」が独立して新しい俳誌『車百合』を刊行するとの予告記事が載る。

 次号の第二巻三では、初めて平尾不孤が登場し「英文学史の研究を促す」と題して評論を執筆、「関西文壇には実質が無い」との主張を展開する。また薄田泣菫も初めて新体詩「子狐」を発表し、この号以降薄田泣菫はほぼ毎号登場する。次の第二巻四号には後藤宙外の評論「文士と老衰」、翌三三年一月の第三巻一号には泉鏡花の小説が載るなど東京方面の文士たちの寄稿が急速に増える。またこの号に「文学同好会」が結成されたという記事が載る。これは先の藤田福夫論文によれば、文淵会とは別組織で須藤南翠、菊池幽芳、三木天遊などが加わり、幹事は山本郭外、平尾不孤、金尾思西(種次郎)だったという。次の第三巻二号には与謝野鉄幹の詩、児玉花外の詩というように、明らかに八月以降、執筆者の顔ぶれに変化がおき、大阪文壇に限られなくなっていく傾向をみせる。そして先の予告どおりに三二年一〇月、青木月斗発行の俳句雑誌『車百合』が創刊される。発売は金尾文淵堂である。

 これら一連の変化、つまり誌面に小説や詩が次第に増え、評論が充実していく様子を良く観察すると、『ふた葉』の編集主体が青木月斗ら俳句グループから、平尾不孤や角田浩々、薄田泣菫に移っていくことがうかがえる。この編集上の改革には、金尾が主体的に深く関わっていたと思われる。編集責任者の金尾種次郎にとって古いなじみの俳句仲間との関係を整理し、新しい文芸雑誌として『ふた葉』を刷新していく戦術であり、相当な神経を使ったと思われる。彼自身はこれについて一言も残していないので推測だが、角田浩々歌客の文学講演、新俳句雑誌の予告、平尾不孤の評論、薄田泣菫の登場、文学同好会の結成と次々と手を打ち、俳句グループを刺激しないように『車百合』を別に創刊するなど、『ふた葉』が文学雑誌として脱皮していく状況が読み取れる。

『小天地』は『ふた葉』の後期を受け継いだもので、三三年一〇月から三六年一月まで(通算二五号)、さらに関西出身以外の文士の寄稿を増やし、表紙の装丁や挿絵もさらに洗練の度を加える。小説では硯友社の作家たちを中心に国木田独歩・島崎藤村・永井荷風らが加わる。随想には坪内逍遥・幸田露伴・徳富蘆花らが加わる。韻文には横瀬夜雨・沢村胡夷ら、短歌では新詩社詠草と題して与謝野鉄幹・与謝野晶子・山川登美子らが名を連ね、『明星』(明治三三年創刊)との連携が明らかである。俳句は一つの欄となり青木月斗らのほか、虚子・鳴雪らの作が並ぶ。

『よしあし草』と『小天地』
 あきらかに「東京志向」が強まった『ふた葉』の後期と『小天地』はどのように評価されてきたのか。
 明石利代は、『小天地』が当時、他の雑誌(『帝国文学』や『明星』)でどのように評価されたかを紹介しながらその性格について考察している。それによると、『ふた葉』が刊行される以前に大阪には文学雑誌『よしあし草』(明治三〇年創刊、三三年九月『関西文学』と改題し、三四年まで三三号)があり、これは関西(浪花)青年文学会の機関誌として大阪を中心とする文学運動のなかで生れた。金尾文淵堂の『小天地』とはお互いに張り合う存在だったと述べ比較する(明石利代「明治期大阪での文学雑誌の書誌的展望」(『女子大文学』一四号、大阪女子大学文学会、一九六三年)。

 明石は、金尾文淵堂を発行所とした商業出版の『ふた葉』と「文淵会」のありかたが、『よしあし草』と関西青年文学会のようの文学運動的な組織と成立事情をもつかと問いかけ、金尾思西がもともとは関西(浪花)青年文学会にいたことや、その支部のひとつ葦葉団のメンバーらが文淵会の主な存在になること、『ふた葉』に次第に後藤宙外や泉鏡花、与謝野鉄幹ら中央を拠点とする者の寄稿が目立つようになり、「大阪の土地とは無縁なのがはっきりたどれる」とし、「この点は『よしあし草』と異なる所」で、このような推移はもともと『ふた葉』には『よしあし草』に於ける関西青年文学会のような強い組織がなかったからではないかと述べる。『小天地』は一層その傾向が強まり、小杉天外・田山花袋らの小説は載っても『帝国文学』の評者がいうように駄作に過ぎず、『小天地』のこのような性質に比べると、作品に傑出したものがなくても「大阪を地盤に新人の発表の場としての立場を最後まで維持し」た『よしあし草』こそ注目に値すると結論づけている。

 この評価はおそらく文学史的観点からいって、また中央対地方という構図のなかで大阪文芸の独自な発展を見ようとする観点からすればその通りといえよう。しかし、私は出版者がいかなるモチーフによって立ち上がり、著者群をどのように形成し、それが出版物の特色としてどのように表れるかということに関心を持つ。歴史的な観点からすると、『ふた葉』『小天地』という文芸雑誌は『よしあし草』に増して興味深い。さらに金尾文淵堂が明治三六年一月、おそらく経営悪化のため『小天地』を終刊とし、文淵堂を東京に移して再起を図ろうとした意図を知りたいと思うのである。

角田浩々歌客と新聞社人脈 
 金尾文淵堂の初期を構成する二つのグループを検討して来たが、大阪から東京へと展開する過程でもうひとつ重要な執筆者のグループがあった。それは角田浩々歌客・中村春雨・菊池幽芳・柳川春葉と、河井酔茗・与謝野鉄幹・晶子らである。与謝野鉄幹・晶子夫妻とは特別に親しい関係がつづいた。明治三三年八月に鉄幹が大阪に来たときに金尾種次郎がはじめて会って以来のことで、与謝野家との関係についてはすでに多くの証言が残されているので、のちに徳富蘆花とともに論じることとし、ここでは前者に注目したい。

 角田浩々歌客(一八六九〜一九一六)は、静岡県富士郡大宮生れ、本名謹一郎。慶応義塾文科中退後、明治二〇年代半ばから『国民之友』に文芸批評家として不二行者の筆名で創作・評論を発表。明治三二年『大阪朝日新聞』記者となり、三八年『大阪毎日新聞』に移り、学芸副部長、さらに大正元年『東京日々新聞』に学芸部長として転出した。
金尾文淵堂との付き合いは『大阪朝日新聞』の記者時代からで、金尾種次郎よりも十歳年上だった。『ふた葉』への初登場は二巻二号であることは先述の通りである。『ふた葉』の編集方針転換にかかわり、『小天地』創刊時に薄田泣菫、平尾不孤とともに編集者の一人となった。『小天地』には毎号評論等を掲載し、明治三四年六月にエッセイ集『出門一笑』、明治四〇年に『鴎心録』を金尾文淵堂から刊行した。

 年齢や経験から考えて初期の金尾文淵堂の出版活動の目付け役として重要な役割を演じたと思われる。彼の人柄を伝えるのは松崎天民の自伝『同棲十三年』である。
同書には、松崎天民が角田浩々歌客に食客として世話になり、また新聞社へ就職の面倒をみて貰ったこと、『小天地』に社会ルポを書いて原稿料を得ていたこと、金尾種次郎から結婚式の着物を借り、結婚祝の道具をもらったことなどがユーモラスに描かれている。金尾がたとえ無名でも才能ある筆者の面倒をよくみたことを物語るエピソードとして貴重である。

 文淵堂の刊行書目とその執筆人から見えてくるものの一つは、角田浩々のような新聞社の文芸記者との連携、そして新聞小説を文淵堂で単行本化するという戦略である。角田は『大朝』から『大毎』へと移籍し、学芸部長をつとめるなど新聞社に顔が広く、かつ文淵堂の雑誌の顧問をも兼任していたので、金尾文淵堂と大阪の新聞社ことに『大毎』との結びつきには深いものがあった。ここに文淵堂の小説本の筆者人脈が形成される素地がある。

文淵堂の執筆者の内、『大毎』系の記者には、角田浩々をはじめ菊池幽芳、水谷不倒がおり、『大毎』の懸賞小説で一等当選の中村春雨(吉蔵)、話題の新聞小説『生さぬなか』の筆者柳川春葉がいる。『大朝』系には、古参記者の須藤南翠(光暉)がおり、『朝日』の懸賞当選小説を単行本化したものに、大倉桃郎『琵琶歌』(明治三八)、田村俊子『あきらめ』(明治四四)がある。そのほか、明治三〇年代初め『大阪新報』記者だった松崎天民(のち朝日新聞記者)が『小天地』に社会ルポを書き、キリスト教社会主義の木下尚江も文淵堂から五冊の新刊と再版本を出すが、彼も毎日新聞記者として新聞小説を書いていた。このように金尾種次郎は、新聞記者と密接な関係を結びながら、新聞小説の単行本化という戦略をもっていた。

「家庭小説」という新聞小説
菊池幽芳(一八七〇〜一九四七)も『大毎』の文芸記者としてならし、金尾文淵堂とも深いかかわりをもった人物である。茨城県水戸の出身だが、『大毎』の二代社長の渡辺台水に誘われて明治二四年に入社した。『大朝』ではすでに渡辺霞亭や西村天囚が大衆的な小説を次々に連載していた。『大毎』でも渡辺台水が新聞政策上連載小説を重視し、菊池幽芳に外国小説の翻案をするよう指導し、「光子の秘密」を書かせて連載(明治二五年〜二六年)、人気を博する。以後菊池幽芳は「みだれ髪」などを次々にてがけていく。明治二六年に渡辺台水は結核で死去するが、『大朝』に対抗するために三〇年、原敬を編集総理(翌年社長)に迎えて朝日を追撃、原敬は漢字制限・口語体で書くことを積極的に推進し、相撲開催や懸賞小説などのイベントで部数を伸ばした。明治三二年の菊池幽芳「己が罪」の連載が大評判になり、連載小説の良し悪しで発行部数が左右される状況がうまれる。小説を書く新聞記者はひっぱり凧であった。

 菊池幽芳は『大毎』の文芸部主任(明治三〇)から社会部長、副主幹兼学芸部長など、『大毎』の要職を歴任した。その一方で金尾文淵堂の『小天地』の賛助会員の一人に名を連ね、同誌に小説や雑文を寄稿しつづけ、明治三四年に『よっちゃん』を刊行。文淵堂が東京に移ってのちも三八年に『妙な男』前・後編、四一年『月魄』、大正二年『百合子』三巻、大正四年『小ゆき』四巻を刊行し、長く金尾とのつき合いが続いた。

 金尾文淵堂が『小天地』を初めとして、単行本でも尾崎紅葉の硯友社系作家の作品を多く取り上げてきた理由ははっきりとはしないが、菊池幽芳の斡旋があったのではないかと思われる。菊池幽芳と尾崎紅葉とは二〇歳代から親しく、娘と息子同士が結婚するなど縁戚関係にあった。

 『大毎』の懸賞小説の第一等となり金尾文淵堂から小説を出しつづけた作家に中村春雨(吉蔵)(一八七九〜一九三一)がいる。春雨は金尾種次郎と同年、島根県津和野生れである。明治二九年、大阪に来て大阪郵便局貯金管理所の書記補をつとめながら小説を書く。三〇年に郵便局で同僚だった高須芳次郎(梅渓)らと浪花青年文学会を結成し、雑誌『よしあし草』を発行、三二年に上京して広津柳郎に入門する。広津家に寄寓して東京専門学校へ通った話は広津和郎が書いている(『年月のあしおと』講談社、一九六三年)。翌三三年、『大毎』の懸賞小説に応募し、『無花果』が第一等に当選。新聞連載後に金尾文淵堂から単行本を発行し好評を得た。春雨は『よしあし草』の同人だったが、三三年三月の『ふた葉』第三巻二号に「思西君に与へて関西文壇を論ずる書」を寄稿し、『小天地』にも小説を発表する。またクリスチャンだった春雨は文淵堂から『新約物語』(明治三九)、『旧約物語』(挿絵は青木繁、明治四〇)などを刊行している。

 柳川春葉(一八七七〜一九一八)も文淵堂から多数の小説を刊行している。春葉は東京下谷の生れ、紅葉門下で泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声とならぶ四天王とよばれた。明治三八年くらいから『東京日日』『東京朝日』などに新聞小説を書き、大正元年に『大毎』で連載した『生さぬなか』が大人気となり、菊池幽芳の『己が罪』以来のヒットとなる。『大毎』の部数は伸び、「なさぬ仲」の名を冠した饅頭やせんべいが氾濫し、新派悲劇のドル箱的存在となった。春葉は『大毎』の専属作家として優遇された。その『生さぬなか』の単行本を金尾文淵堂が刊行して成功した。文淵堂との関わりは古くすでに明治三四年の『小天地』に小説を発表している。単行本では『縁の糸』(明治三九)『花売女』(大正元)『女一代』上下(大正二)、『かたおもひ』『母』(大正三)を刊行。大正八年に柳川春葉が亡くなると金尾文淵堂は『春葉全集』を編んでいる。

 これら大衆現代小説は当時「家庭小説」と呼ばれた。蘆花の『不如帰』を原点として、菊池幽芳の『己が罪』でその形が整い、中村春雨、柳川春葉とつづく一連の人気小説は、日露戦争後の自然主義文学全盛時代には通俗的で文学としてみるべきものがないと切って捨てられ、次第に作家の名前とともに忘れ去られていく。しかし家庭小説はいわば現代のTVのホームドラマやメロドラマに通じるような物語の枠組みをもっており、死に絶えた文学形式とはいえない。家庭小説とメディア(新聞・出版・芝居)との関係についてはさらに掘り下げて考える必要があろう。金尾文淵堂がこうしたジャンル小説をしっかりとラインアップしていったのは単なる時代の偶然ではないだろう。

 文淵堂と新聞記者とのコンタクトは深かった。小なりといえども雑誌を発行し、そこに現役の記者が参加していたことが、懸賞小説の選考や受賞者との接触に有利だったともいえる。しかし、彼らとのつながりがもたらしたものは、実務面以上のものがあっただろう。当時の作家あるいは新聞記者の存在の仕方は現在とは異なり、職能はまだ未分化で流動的だった。作家は小説や、詩だけを書くのではなく、新聞記者として取材にも出かけ、批評もすれば、翻案もし、また自分達の文藝サークルの活動もおこなうといった多角的な動きの中で創作を行っていた。

 新聞記者も個人の顔をもって創作や論争に参加し、会社で記事を書く以外に活躍の場をもっていた。また、文学と美術という領域も今ほど境界がはっきりとせず、同じ土俵で批評が行われるなど芸術的価値の階層化が押し寄せる直前の状況でだった。 そういう未分化な面白さを金尾文淵堂はまるごと本にして残しているのである。金尾文淵堂の執筆者人脈のつくり方に、過渡的な混沌が認められるのは金尾が大阪を拠点としたからかもしれない。明治後期における大阪と東京の文化的な差がこの面白さにはあらわれているのではないか。同時代の春陽堂や新潮社とは違うカルチャーが文淵堂には見える。

 次回からは、こういう点も念頭におきながら、金尾文淵堂をめぐる人脈、本の装飾家や画家たち、新仏教運動の学者たち、与謝野家と徳富蘆花、その他の網の目からはみ出した社会派などについて順次検討していきたい。

(注や引用文をかなり省略しています)

 

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