チェルヌィシェフスキーН. Г. Чернышевский(1828-89)

 

 故郷サラトフの神学校からペテルブルク大学に進み、卒業後は雑誌『同時代人』を舞台に急進的民主主義の論陣を張った「革命的民主主義者」。「現実に対する哲学の美学的関係」「哲学の人間学的原理」など、小難しい論文を多数発表。要は人々を救うには合理的な社会(協同組合的なものを念頭に置いていた)を作るしかない、といいたいのだが、検閲で本心を言えず、回りくどい論文を書くハメになった。クリミア戦争敗戦後の農奴改革論争では農村共同体擁護の論陣を張った。

 で、62年には苦心の甲斐なく逮捕され、シベリアに流刑になる。苦難の人である。

小説「何をなすべきか」で理想的な生活と女性の解放を訴えた。この小説、『同時代人』に投稿したのだったが、編集長のネクラーソフが印刷所に行く途中で落としてしまい、懸賞金付きで探した。という、いわくがつく。ちなみに「何をなすべきかЧто делать?」の原稿を落としたことに気づいたネクラーソフ、「Что мне делать?」と叫んだという。

後にレーニンがこれを読んで感心して、自分も「何をなすべきか」と言って共産党の組織論を書いた。一方、ゲルツェンやトルストイら上の世代の文人たちとはウマがあわず、「貧乏神学校生」だとか「南京虫の臭いがする」だとか言われ放題。

1889年にようやく故郷サラトフに帰ることが許されたが、帰省して、わずか3か月後に死亡。サラトフの墓場に埋葬されたが、1939年にソ連政府によって立派な記念堂が立てられた。なんといっても「革命的民主主義者」である。もともと墓の上に立てられていたお堂は、現在、チェルヌィシェフスキーの家博物館の庭に移築されている。

 

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