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ハリー・ブリッグハウスへのインタビュー
Uma entravista com Harry Brighouse

Michael F. Shaughnessy
Mitja Sardoc

http://www.filosofia.pro.br/textos/harry.htm
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ハリー・ブリッグハウスは、イングランドのマンチェスターにほど近い都市ストックポートで1963年に生まれ、サウス・ウェールズ、バッキンガムシャー、オックスフォードシャーで小学校に通った。その後、ベッドフォード・カレッジ(今はもう閉鎖されている)とキングズ・カレッジ(ロンドンにあるほう)に通い、ロンドン大学で1985年に哲学士を取得した。南カリフォルニア大学で、バーバラ・ハーマン( Barbara Herman )の指導のもと、哲学博士となった。学位論文は、自由主義的平等論における民主主義の地位にかんするものであった。カリフォルニア大学デービス校哲学部で1年間、ウィスコンシン大学マディソン校哲学部に移り8年間、哲学を講じた。現在ロンドン大学教育学部に所属している{* 2000-2002年の間、本籍はウィスコンシン大学(田原注)*}。最近は、これまで広く無視されてきた家庭にかんする自由主義理論を研究している。現代の教育にかんするさまざまな論文を公刊しており、『School Choice and Social Justice』(Oxford University Press, 2000) の著者である。
−−現在は何を研究(あるいは執筆、あるいは調査)していらっしゃいますか?

わたしは現在、リベラル理論における家族の地位に研究の主眼を置いています。リベラルたちは二つの価値に大きな力点を置きます。寛容と個人の自律性です。これらは、オトナはお互いをどのように遇すべきかということを考察する場合には、心地よく一致するでしょうが、子どもや家庭に等しく導き入れられる場合には、深い緊張関係にあります。リベラルたちは気軽にこう言うことができます。われわれは、お互いの自律性の尊重のために、有害でない実践にたいしては、お互いに寛容でなければならない、と。しかし、そうした他者の実践が子どもの創造という実践−−これは子どもの将来の自律性を危険にさらします−−を含んでいる場合には、彼らの善き生にたいしてわれわれはなんらかの責任を負っているのであって、寛容についてのわれわれのコンセプションを、あるいは自律性の中心性というわれわれのコンセプションを考え直さなければなりません。最近のリベラル理論家たちは(スーザン・モラー・オーキン Susan Moller Okin のような注目すべき例外はいますが)家庭を無視してきました。わたしは、家庭にかんするしっかりとした考察がわれわれをリベラル理論の基礎の再考へと導くと思っており、そのことに関心があります。今は、寛容をどのように概念的に把握するか、こうした問題の観点から、親は自分の子どもにたいして根本的にどんな権利をもっているのか、そして子どもの権利を概念的にどう把握するか、といったことにかんして考えを深めているところです。

また、引き続き、リベラリズムの理論的基礎にかんして、とくに、リベラリズムの内部における民主主義的諸権利の地位にかんして研究しています。民主主義の諸価値にかんする論文を執筆中ですし、それに、経済学者のマーク・フルービイ Mark Fleubeay との共著論文では、政治的影響力の比例原理としての民主主義をどのように概念的に把握するかということについて書いているところです。そのアイデアは、一般的にいえば、民主主義において権力は人々が結果においてもつであろう利害関心に比例して分配されなければならないというものです。


−−近著『School Choice and Social Justice』の全体像を手短に紹介していただけますか?

完全に異なる二つの考慮を介してプロジェクトに取り組むことに確信を得ていました。第一に、わたしは、最近のリベラルな政治哲学における子どもたちと彼らの教育にかんする考察の乏しさにびっくりしていました。大多数の政治哲学者があたかも社会の全成員はすでに立派なオトナになっているかのように論じているので、わたしは、もしも子どものインタレストが明示的に考慮に入れられたならば、どれだけの再検討が必要になるだろうか、ということに関心を抱いていました。第二に、90年代が進むにつれて合州国で教育における中心的な政治問題となっていた学校選択の問題にたいする左翼政治(学)の多くの論者の想像力に欠けた返答にわたしは愕然としていました。研究が進むにつれて、そして、教育理論にかんする著作を次から次に読み重ねるにしたがって、政治哲学を支配しているリベラルな平等理論が教育理論に及ぼしている無表情な影響がますます強い印象として残っていきました。医療倫理において、あるいは国際関係にかんする理論研究において、あるいはまた福祉政策においては、ジョン・ロールズ John Rawls やロナルド・ドウォーキン Ronald Dworkin といった人々の著作への言及が説得力をもっているのにたいして、教育理論においてそうした言及はかなり稀であり、ポストモダン理論の影響のために、アルサデア・マッキンタイヤー Alsadair MacIntyre やマイケル・サンデル Michael Sandel といったコミュニタリアンのために、また影響力は比較的小さいがリバータリアンのために妨げられています。

そういうわけで、わたしは次の三つのことを達成しようと思ったわけです。主要な哲学的目的は、教育のための社会正義のリベラルな平等理論を発展させることでした。すなわち、正義にかなう社会はどんなタイプの教育を主張するだろうか、それを記述することです。政治的には、左翼のメンバーたちをして、学校選択に再び目を向け、そして、予見可能な状況において、選択それ自体に反対することは、なぜ誤りであるのかを説明させることを、わたしは期待します。もっとも恵まれている人々は(そうでなくても)大量の選択肢をもちつづけるでしょうから、そうした(選択それ自体にたいする)反対はもっとも恵まれていない人々のための選択に反対するのと同じことであるわけです。選択を評価する場合には、われわれは個々の計画に目を向けて、そして、それらの計画がどれくらいうまくいくのかを、あるいはどれくらいうまくいくと期待されるのかを、社会正義の観点から、他の実行可能な非選択制の計画と比較しつつ、検討しなければならないでしょう。この本の最後の章で説明しているように、わたしは、多くのローカルな状況において、選択は、もっとも正義にかなった実行可能な計画の重要な構成要素であるだろう、と確信しています。ただし、同じく強調していることですが、これは経験的推測であって、ア・プリオリに決定されうることではありません。最後に、本書は方法論的な実験の書です。すなわち、わたしは、政治哲学を、教育制度についての今日的な諸研究にかんする綿密な注意、ならびに実行可能な制度設計にかんする慎重な推測と、ア・プリオリに組み合わせることを試みています。思うに、社会科学者たちは規範的な諸問題にたいしてしばしばほとんど注意を払わずに振る舞っており、また、政治哲学者たちは制度研究や諸制度にかんして実際に知りうることにたいしてほとんど注意を払っていません。これでは本当のところ批判的研究者とは言えません。学問の世界にはこうなるような圧力が数多く存在します。なかでも、社会諸科学や哲学をうまく機能させるためにではありますが、汝は個別学問の核心に深く専心すべし、というのは決定的です。わたしは、社会科学者たちに注意深い経験的研究をおこなうことを思いとどまらせたり、哲学者たちに厳密な分析的研究をおこなうことを思いとどまらせようとしたいのではありません。そうではなく、多くの人々が、他の学問領域で起こっていること目を向けつつ、自分の学問領域のなかで研究を試みる、そういったことを励ましたいのです。

この本は、平等主義的リベラリズムの主要な約束事を素描し、リベラル理論における家庭の問題を叙述するところから始まっています。そう多くの議論をしているわけではありませんが、本書は家庭の価値について述べており、次のように主張しています。すなわち、一連の論議は、子どもは家庭のなかで創造されたものであり、その親が、まちがいなく、彼らの教育にかんする大きな事実上のコントロールを有していると想定している(教育を論じるすべての人々が事実上そのように想定している)、と。

第二章では、わたしが選択制についての「一般的」賛成論と呼んでいるものに注目しています。すなわち、学校選択を支持する一連の種々雑多な考察がそれであり、それらの多くは、ミルトン・フリードマン Milton Fiedman が著書『資本主義と自由 Capitalism and Freedom』のなかで与えた例にもとづいて構築されています。さらに、この章は、フリードマンの選択賛成論にかんしてかなり長く論じています。そのなかには、彼が彼の反対者たちと分かち合っている諸前提への批判が含まれています。すなわち、学校教育を国家が財政措置するための条件は、学校教育がいわゆる公共善を産み出すという事実に存している、という前提がそれです。わたしは、学校教育にたいする国家の財政措置は、通常そのように思い込まれているよりもはるかに公共善を産み出さない、ということを子細に検討することになります。とりわけ豊かな社会においてはそうです。そのような社会では、教育的達成が所得の重要な先触れであることはよく知られています。さらに、わたしは、公共善にかんする主張は学校にたいする国家財政措置の場合には実質的にはイレレヴァントである、ということも論じています。教育は事実の問題であり、そして、重要なのは、子どもたちを教育することが他者のために利益を産むかどうかということとは独立に、子どもたちが正義の問題として権利を有しているという事実なのです。

第三章は、選択制に反対する三つの主要な議論を論駁しています。曰く、選択制は教育を商品化するものであり間違っている。選択制は、教育は民主的に統治されるべきであるという原則に反する。教育における市場は共通善を侵害する。

続く四つの章では、教育のための社会正義の理論を精緻化しています。そこで、わたしは、すべての子どもは、たとえそれが親の願望に反していようと、自律性を育む教育を受けなければならないと論じ、そして、以下のような一連の異議にたいして返答しています。曰く、そうすれば、親の権利が侵害されてしまう。自分の文化にたいする子どもの権利が侵害されてしまう。リベラルな中立性基準が侵害されてしまう。非自律的でありうるという子どものインタレストに反してしまう。続いてわたしは、ロールズの公正な機会均等原理においてモデル化された教育的平等の強い原理を精緻化し弁護しています。そして、一連の異議にたいしてこの原理を原理を弁護しています。それらの異議のなかには以下のようなものが含まれています。この原理を実施すると家庭の価値を危険にさらしてしまう。教育的平等は首尾一貫しない原理である。平等主義の諸理論が弁護するのは教育的適切性の原理だけであって教育的平等ではない。

第八章は、既存の二つの選択プランに注意が払われています。ミルウォーキー親の選択プログラムと、イングランドとウェールズにおける1988年以降の決定です。これらの計画にかんするすぐれた諸研究から得られたデータを利用しつつ、この章では、これ以前の各章でスケッチした社会正義の理論と対比しつつ評価するとき、それらはどの程度うまくいっているのかということを問題にしています。経験にもとづく結論は次のようなものです。すなわち、二つのうちどちらもうまくいっていない。しかし、それぞれのケースにおいて、これらの失敗の説明になるような制度設計もしくは基礎的条件の諸特徴が存在している。さらにまた、これらの計画は、それらが取って代わることになった諸プランと対比した場合に、社会正義の観点からみてまずいという証拠はない。

最後の章は、選択制は社会正義と両立可能であるという議論を提出しています。わたしはそれを、正義の履行に向けて設計された選択制のスキームの骨格を精緻化することによっておこなっています。それはある程度、ハーバート・ギンタス Herbert Gintis が数年前に『Teachers College Record』に書いた論文のなかで描いたプランにもとづいて構想されています。適切な諸規制をシステムのなかの学校に課し、そして生徒の適切な混合を達成するために強力な財政的インセンティヴを学校に与えるとき、イングランドとウェールズの新しい選別スキームにおけるよりも、あるいは地域がコントロールし財政する合州国のシステムにおけるよりも、学校教育の平等にいっそう近くなりうるにちがいありません。


−−近著をよくご存知でない方々のために、意図の中立性の概念について詳しく紹介していただけますか?

わたしが思うに、リベラルな哲学者たちのあいだでは、中立性の役割にかんする合意みたいなものが現在存在していますが、非リベラルや反リベラルの人々にはリベラル理論における中立性の役割にたいする誤解が広く行き渡っています。少なくとも、政府は中立的でなければならないという観念をもって人々が言いたいと思っていることには、きちんと区別される三つのことがあります。第一のそれは、しばしば、それは効果の中立性と呼ばれます。すなわち、政府の行為一般は、ある特定のライフスタイルを、他のライフスタイルを犠牲にして利してはならない、という意味です。したがって、たとえば、国立公園の建設は、野外生活をより容易に楽しめるようするし、また、テレビを見たいという人の生活をより困難にするでしょう(木々が送信電波を遮りますから)。こうした場合には、厳密に言えば、もし他の手段によって便益の分布が釣り合うようにならなければ、建設は許されないということになります。第二のものは結果の中立性です。これは、それぞれのライフスタイルの実現が容易になるにせよ困難になるにせよ、政府は等しく容易または困難になることを保証するように行為しなければならない、ということを意味します。したがって、政府は、満足感を与えるものにかんして高価なコンセプションをもっている人々にたいしては、高価なコンセプションを実現するのがより困難であるという事実によって、これを補正する必要がある、ということになります。他の条件が等しければ、サッカーを熱愛する人々はいくらかの広さの平らな地面と一個のボールを与えられるだけなのに、スキーが好きだという人にはめいめいに斜面と雪とスキーが認められることになるでしょう。

今述べた観念のどれかが正義の定義においてなんらかの役割を担っている、と信じているリベラルがいるとはわたしは思いません。本書のなかで説明しているように、もしそうした意見があるとしたら、それはきわめていかがわしいと言わねばなりません。しかし、大多数の人々は、第三番目の観念、意図の中立性が、少なくとも、なんらかの役割を担っている、ということを信じています(ただし、この役割が正確に何であるのかにかんしては、一致をみていません)。意図の中立性はただ次のように述べるだけです。すなわち、政府はあるコンセプションを支持し別のコンセプションを損なうという意図をもってはならない。したがって、たとえば、政府が国立公園を設けるという政策を実現することは認められる。というのも、政府の意図は、他の生活スタイルを犠牲にして「野外生活」を優遇することにはなく、言うなれば、澄んだ空気を提供したり多様な種の保存を保証したりすることにあるからです。

意図の中立性のみが、中立性へのインタレストを動機づける深い関心としかるべく結びついています。それは次のようなアスピレーションです。すなわち、国家はしばしば強権に訴えなければならないが、そのとき、国家は、強制下にある人々にたいする不敬を表すことなくそれをなさねばならないだろし、そして、それよりもっと不敬なことは、強権が行使される相手である諸個人のもっとも深いコミットメントを偽とみなすことである。

しかしながら、少なくとも二つの点で、話はまだ完結しません。第一に、中立性にたいするリベラルなコミットメントは相対主義的ではありません。リベラルはライフスタイルにかんして相対主義者ではありえません。それゆえ、そのような相対主義は間違いであり、人々が自らの個人的なコミットメントを修正する諸条件が与えられるために人々が必要とするなリベラルなコミットメントとは両立しません。中立性にたいするリベラルの関心は、正統な強権を独占する国家はこのキャンペーンをおこなうにふさわしいエージェンシーではない、という意見を反映するものです。第二に、中立性を示すことがリベラリズムの根本的なコミットメントなのではありません。リベラリズムは、その基礎において、より根本的な諸価値(自律性、人格の尊厳、国家の正統性にかんする一定の見解)をもっており、それらが国家の中立性を擁護しようというインタレストを支えているのです。それらリベラルな正義の根本的な価値を履行するために必要な手段が中立性と衝突する場合には、このインタレストは挫折してしまいます。しかし、それらが衝突しない場合には、このインタレストは満たされることになります。これが、リベラルにとって芸術の国家支援を承認するのがこれほどむずかしい理由の一つです。それゆえ、そうした政策は、納得できるかたちでは、リベラルな正義には求められないのです。そのうえさらに、分別ある人々の間で論争の的となる善にかんする諸々の観念を予想させないようなやり方でこの支援を正当化することもまた困難です。このように、多様な善のコンセプションを前にして国家は中立であるべきだとみなすとしても(そのような実践は正義にかなうリベラルな諸制度の作動と整合的である)、論争の余地のある諸価値を一つにしているという異議は、リベラリズムの内的な整合性にたいする異議ではありません。


−−公教育政策におけるリベラリズムの政治的プロジェクトをわれわれはどう評価すべきなのでしょうか?

わたしはある意味ではリベラルですが、別の意味ではリベラルではありません。一人の政治哲学者としては、自分自身を深く傾倒していないリベラルだとみなしています。個々の人々は基本的な道徳的重要性をもっており、そして、さまざまな集団やネーション、また環境でさえも諸個人のインタレストに資するかぎりにおいてのみ重要であると考えているという意味において、わたしは倫理的個人主義者です。さらに、わたしは、リベラルな諸権利の標準的なパッケージ−−結社の自由、表現と信教と移動の自由、投票の自由、自由で公正な選挙において公共的職務を代表する自由−−は正義にかなう社会にとって根本的であるし、また、正義にかなう政府が第一に優先すべきはこれらの権利を保護することである、と確信しています。けれども、合州国では、リベラルという用語はさらにそれ以上の何かを意味するに至っています。30年代や60年代のニュー・ディールやグレート・ソサイェティ改革を支持する者、民主党左派を支持する者。総じて、合州国では、政治は右寄りへと、あるいは物事の保守的な端のほうへとよりいっそう動いてきました。そのようななかでは、彼女をリベラルとしてアイデンティファイするのはもっとずっと容易であると思います。というのも、リベラルたちは、哲学的にみて、わたしや、信条や哲学や態度を変えてきた他の思想家たちによりいっそう近づいているからです。しかし、公共的および政治的な意味では、わたしはリベラルではありません。わたしは、欠乏の評価よりも便益の普遍的な供給のほうに、規制よりも再分配のほうに、共通善よりも個人の諸権利のほうに賛成です。政治的には、わたしは社会主義者または社会民主主義者です。

以上のことが示唆しているように、わたしは、民主党のリベラリズムの教育にかんするアジェンダを洗練されたものだとは思いません。リベラルたちは、学校選択やメリット・ペイといった問題にかんして右翼がコントロールを握ることを容認してきました。また、彼らは、必要なときにはいつも基本的な譲歩をして、譲歩が必要でないときには弁護の余地ない現状を弁護してきたということにたいして責任があります。二党制の選挙システムにおいては、政治家たちが計略操作できる空間は限られているということついてはわたしもわかっています。しかしながら、リベラルたちが教育において想像性あふれるオルタナティヴを備えたキャンペーンを考案し作成してもっと精力的に活動してこなかったということには気が滅入ってしまいます。たとえば、クリントン Clinton の行政は、非常に多額の財政資金をチャーター・スクールにつぎ込みましたが、それがどう機能するのか、それをもっとも必要なところはどこなのかということには注意が払われませんでした。民主党のリベラルたちは、弁護することなどできない公教育の現状を弁護しているのです。左翼は公教育の構造を綿密に再検討し、そして、もっとも必要としている人々に資源を再配分することをめざす改革プログラムを差し出す必要があります。


−−しかし、教育は、他のどんな政治的制度でもそうであるように、政治的であることを避けられません。公教育が明確な価値や参加的な(partihados)態度を教えるとき、その教育は「中立的」でありうるとお思いですか?

たしかに。中立性は不可能ですし、また(幸いなことに)、公教育が正当化されるときには、あるいは教育が遂行される様式においては、中立性は求められません。しかし、わたしはひとつの警告信号を送ることになるでしょう。まさしく、教育は中立的なやり方で正当化される必要がないからこそ、教育を o que quiser にする権限が国家に与えられず、また、もっぱら自らの欲求のみを押しつける権限が(その必要があるような稀なケースにおいて)左翼またはリベラルの活動家たちに与えられないのです。たとえば、子どもたちをひと連なりのリベラルになるように教育する権利は、われわれにはありません。これは保守的な目的のためではなく、正当なリベラル国家は自らの市民たちの自由で条件づけられない承認同意を切望するからです。したがって、そのような国家は、未来の市民たちにおける批判的でない承認同意を条件づけるべきではないのです。このように、学校教育にかんする国家の裁量範囲には限界が、たとえこれらの限界が中立性にたいする配慮から直接に動機づけられるものではないとしても、限界が存在するのです。

中立性が不可能だというのにはもう一つの意味があります。すなわち、実在する政府諸制度においては、多種多様な行為者が多種多様な政治的アジェンダ−−どれも中立的ではない−−を担っており、この形態においては、その諸結果も中立的であるなどということはありそうもない、という意味です。リベラルたちの課題は二重です。一つは、リベラリズムにもっと推奨されそうな諸結果をもたらすように諸制度を試み、また改革すること。もう一つの課題は、リベラルなアジェンダをもつすべての人々を論議に巻き込むことです。


−−教育へのアクセスは一般的に受け入れられている目的の一つですが、それは理論的には民主主義社会における平等のルールに服しています。教育は社会における機会の平等に貢献するとお思いですか。

教育政策にかんする論議は、わたし自身のものも含めて、正義にかなう社会における教育政策の役割にかんしてしばしば悪い印象を与えているように思います。教育にかんして論議しているあいだ、わたしたちは、その役割が、あたかも正義を実現する主要な武器であるかのように論じます。でも、そうではありません。不均等に分配される便益を社会から獲得することに向けて諸個人が多かれ少なかれ同様の見通しをもつということを、機会の平等が求めているとするならば−−実際そうなのだが−−、教育政策によって−−子どもたちの各々が受けることを義務づけられている15000時間以上の学校教育によって−−子どもたちが家庭環境のなかで直面する有利さの不平等を補償することができる、と想定するのは、絶望的に楽観的です。貧困は、親による劣悪な世話、愛情に欠けた親による世話、そしてたんなる不運(たとえば、身内の死、時として両親のどちらかの死)と同じように、深刻なやり方で人間の見通しに影響を及ぼします。裕福である、よい教育を受ける、注意深く熱心な親をもつ、こういったことは、注意深く熱心でない親をもつ(あるいは裕福でない、あるいはよい教育を受けない)人と比べた場合に、ある有利さをその人に与えます。子どもたちが家庭のなかで直面する機会のさまざまな不平等は、彼らの将来の見通しに甚大な効果をもちます。したがって、諸々の機会の平等を気にかける政府の中心的な目的は、これらの不平等を改善しようと試みることです。

強調しておくべきでしょうが、このことを認識承認するからといって、親の代わりに息子たちを育てることで、的確な世話への desestimulos を罰し育てるような政策を、われわれが追求しなければならない(ジェームズ・トゥーリーは、その独特で活性あふれる卓抜な著書『Reclaiming Education』のなかで、こう述べてわたしを非難していますが)ということにはなりません。この点にかんするわたしの見解は完全にロールジアンです。すなわち、自分の子どもを育てるという条件つきの義務的な権利を含む基本的自由は、平等な機会という目的に優先する。したがって、われわれが為すべきは、家庭の完全な状態を維持しつつ、家庭の諸々の有利さの不平等を減らすような政策を手に入れることです。奇異に思われるかもしれませんが、こうした家庭へのコミットメントの帰結は、所得と富の不平等が劇的に減らされるべきだということになります。それは、わたしの見解では、機会の平等をもたらす第一番のもっとも重要な形態です。二番目には、親に代わって息子たちを育てることで世話を完全なものにするために(しかしながら、所得と富の不平等を減らすことよりも大きな効果をもたらすものないでしょう)、また、最後に挙げるものにたいする圧力を減らすために設計された追加的な方策が来ることになります。教育の諸政策は三番目にしか来ません。すなわち、教育は、諸々の資源が適切に分配される場合にのみ−−相対的に能力の劣る子どもたちや相対的に低い所得の家庭に生まれた子どもたちが、消費資源を、ほかの子どもたちよりも多くもつようにする(合州国の状況とは大きく隔たっている)−−、教育は、われわれが機会の平等を実現する手助けとなります。

とはいえ、教育政策は、今まさしく、平等主義者たちにとって、とてつもなく重要な焦点となっています。なぜなら、機会の平等を実現するために必要な所得や富の平等のための余地が今の政治的論争のなかにはまったく存在しないからです。この20年間で−−合州国においてばかりではなく、西ヨーロッパのほとんどすべての国々においてもまた−−、経済的繁栄のためには不平等が不可避であり必要であるという観念がいわば議論の余地ないものとなりました。これは変わっていくでしょうが、しかし、それが起こるまでは、機会の平等をめざしたいと欲する平等主義者たちにとって、教育政策は最大の焦点となるでしょう。


−−道具的便益と本来的便益について論じていただけますか?

道具的と本来的というのは、多くの異なった議論における一対の技法的用語です。「道具的」という用語は、おもに労働市場に関連した諸々の便益について語るために使います。相対的に高い所得をともなうような諸々の便益、相対的に見返りの多い職業(あるいは、他の職業と比べて、人の野心によりいっそうふさわしい職業)などです。「本来的」という用語は、労働市場に関連していない諸々の便益について語るために使います。自由時間を消費するとき、チャールズ・ディケンズやドフトエフスキー、ジャッキー・コリンズやアーサー・ヘイリーを読めば、より多くの報いが得られるようなかたちで余暇時間が消費されますが、そういう事実のことです。あるいは、音楽や数学による喜びや満足は、わたしたちがわたしたち自身やわたしたちの世界を理解する手助けとなりますが、そういう事実のことです。実際には、この二つのタイプの便益は結びついてくる、とわたしは思います。というのは、もっとひどく功利主義的な教育者にとってさえ、道具的な便益を産み出すのにふさわしい教育が子どもたちに与えられたならば、そこから子どもたちに本来的な便益を引き出させないということは困難だからです。また、わたしは、道具的便益は、事実、とても重要である、と思っています。しかし、左翼の理論家たちは時として、本来的便益を強調しすぎることがある、とも思っています。不平等な社会においては、われわれが、社会的に不利な境遇にある子どもたちが労働市場においてできるだけ便益を受けるように、さらに、不平等に分配されている所得と富にまで到達する機会を彼らがもつことができるように、彼らを教育するということが、決定的に重要です。その報酬をより平等に分配した社会においては、これはさして差し迫ったことでないでしょうし、本来的に報いられるが道具的には相対的に便益の少ないカリキュラム部分により多くの時間を割くことができるでしょう。しかし、わたしたちはそんな社会に生きているわけではありません。わたしたちの社会においては、教育的平等を実施することは喫緊の課題です。


−−障碍をもつ生徒たちの統合およびインクルージョンの効果について、「社会正義」と平等の観点から、コメントしていただけますか?

教育的平等を構想するさいにわたしが抱え込む最大の困難は、特別の教育上の必要をもつ子どもたちにどうするのが適しているのかということにかかわっています。障碍は、社会階層と同じように、子どもがリーズナブルなかたちでは責任を負うことができないものです。それゆえ、ある人が障碍をもっている否かにかかわらず、成功の見通しはその人の自然的能力のレベルに左右されるべきではない、と考えるのが自然です。しかし、わたしたちの潜在能力の各々についてその実現には限界があるし、そして、なんらかのタイプの能力が不足している子どもたちにとっては、この限界は、事実上、ひじょうに低い。わたしたちは、教育的平等により近づくために、彼らを教育漬けにすべきなのでしょうか、それとも、馬鹿げたことですが、他の子どもたちを無能化すべきなのでしょうか?

どちらにたいしても答えは「否」だと思います。しかし、なぜそうなのかを説明するのは、今のところ、わたしには難問です。

合州国は特別の教育上の必要をもつ子どもたちにより多くの教育的資源を差し向ける努力をしてきましたが、それは賞賛に値します。他の国々も見習うべきだと思います。ピーター・エバンズ Peter Evans 教授は、OECD で、各国の多様な政策を評価するさまざまな興味深い研究をおこなっています。

わたしの関心は、しかしながら、障碍をもつ子どもたちを統合する、あるいは招き入れる諸政策よりも、そうした諸政策、とりわけ教育政策における諸政策との関連において人々がとる態度のほうに多く向いています。いずれの政策も教師たちに多大な要求を突きつけます。そして、当該の子どもたちに便益を与えようとするならば、諸政策を適切に実施するためには教師たちが訓練と適切な資源(時間の補償を含む)を受けることが必須です。時として、インクルージョンは意志の力によって実施されるべきだという印象が与えられることがあります。わたしが知っているある教師たちは、インクルージョンのために使用できる資源にかんする情報やその資源の受け取りを保証するメカニズムにかんする情報を求めたのですが、そんなことをすると、あたかも諸原理を裏切っているかのように、学校教育の教室授業のなかで、検閲までもされました。しかし、インクルージョンは原理ではありません。すなわち、それは、各々の子どもは少なくとも適切な教育を受けるべきだという原理を実施するために設計された一つの政策です。そして、ここには、敷居 ( limiares / thresholds ) という重要な問題が存在しています。すなわち、インクルージョンは、適切な支えと基盤を備えるならば、障碍をもつ子どもたちにとって可能な最善の政策であるということもありうる。しかし、それを適切に実施するために諸資源が自由に使えるようにならない場合には、なんらかの別の政策のほうが子どもたち本人にとってはより適切でありうるかもしれない(大切なのはこれです)。


−−エイミー・ ガットマン Amy Gutmann の民主主義的敷居 原理にたいする批判をお聞かせください。

ガットマンは、民主主義的敷居という原理を用いて、地獄のような底なしの問題から脱出しようと試みています。以下の洞察は教育的平等についてのいかなる記述にとっても敬意を払われるべきものです。すなわち、子どもたちは、結局のところ、諸々の教育的機会についてもっている認識理解の水準に責任を負うことはできないのであるから、教育的平等は諸々の結果に焦点を当てるべきだ。あるいは、教育的平等は、能力の不足している子どもたちには、通常の能力のある子どもたちにたいするよりも多くの資源が与えられるよう求めるべきだ。あるいは、教育的平等は底なしの地獄の諸問題にかんして言うべきリーズナブルななにかをもっているべきだ。

民主主義的敷居理論のもとでは、教育的善の分配における不平等は、それらの不平等が民主主義的なプロセスに有効に参加する能力(なかんずく、これが、他の諸々の社会的善と比較した場合の教育のプライオリティを決する)をどの子どもからも奪わないならば、その場合にのみ、正当化されうる。基準(スタンダード)が敷居を提起するわけですから、それは、最悪でも、解答困難な諸問題を免れています。敷居より上の教育的達成の不平等は完全に受け入れられます。というのも、子どもたちはそれぞれ敷居に到達しているからです。これらの不平等が能力の差異を反映するということはありうるでしょう。そして、全員が敷居に到達するということを保証するために十分な量以上の資源が教育に充てられるのですから、解のない問題は存在しません。

しかし、ガットマンが取り組んでいる底なし問題は依然として回避されません。なぜなら、子どもは敷居までは連れて来られることができるかもしれないけれども、しかし、自らの善き生にとってよりハッキリと中心的な他の諸々のアスペクトによりよく費やされる、あるいはそうした他のアスペクトの増加にさえ費やされるように計画されうる大量の資源の予定があってはじめて、連れて来られることができる、そういう子どもが存在する可能性があるからです。そのうえ、ランディ・カレンが述べたように、ガットマンの基準(スタンダード)は、確固とした基礎を特定しません。すなわち、よりよい教育を受けた者がより多くの教育を手に入れる一方で、相対的によくない教育を受けた者が有効に参加することができるためには、より多くの教育を手に入れなければならなくなる、ということもありえます。このことは、別の底なし問題をもたらすおそれがあります。


−−ランドール・カランのインクルージョンの敷居について、またこの敷居と正義との関係について論じていただけますか?

カレンはオルタナティヴな敷居を提案しています。彼は、底なし地獄問題を回避するさいに、この敷居がうまくいくと考えています。社会的インクルージョンの敷居と彼が呼んでいるものです。彼は、ある一定の教育水準の欠如は市民たちを重大なリスクにさらす、と論じます。すなわち、失業したり、ひじょうに低い社会的地位に落ちたりする。いずれの状況も犯罪性の重要な予兆となるものだ。犯罪にたいする処罰はさまざまな譲渡不能な権利の取り消しを含む。かくして、自らの市民の全員を失業したり低い身分に落ちたりすることを免れるために必要な水準にまで教育しそこなう国家は、彼らを、自らの諸権利を後退させるという一連のリスクにさらすことになる。これは一見して明らかに不正義なことだ。この規準は、ガットマンの民主主義的敷居と比較すると、要求するところが少なく、また、一連の基礎を明記するので−−より多く教育を受けた人々に提供される教育の水準をそれほど引き上げることはおそらくしないだろう−−、彼が向き合う潜在的な底なし地獄の諸問題のプレッシャーは少なくて済みます。

ガットマンとカレンの敷居が検討されなければならないということは明らかだ、ということについては認めます。また実際、わたしは、ガットマンの提案は魅力ある平等主義的な目的だと思います。しかし、いずれの敷居の提案も、教育的平等の問題にたいする哲学的な解答になっていません。どちらも、人々が責任を負うことになるとは良識的には考えられない諸要因によって、報酬とステータスを与える諸々の職の獲得へ向けての根本的に不平等な見通しに、また、消費と楽しみのための資源の取得に向けての根本的に不平等な見通しに彼らが直面するということを容認しています。出生の偶然は依然として、無視できないほどに、人々の生を決定し続けるでしょう。そして、このことは、責任とメリットの尊重にかんする根本的な直観を侵害します。

わたしもまた問題を解いたわけではないということは強調しておきたいと思います。問題は深くなっただけです。それは、教育的平等の理論を差しだそうと試みる者を誰彼となく呪い、そうした理論を発展させようとするプロジェクトに反対する者たちに軍需品を供給しているのです。


−−では、真の教育的平等があるとすれば、それはいったい何を要求するのでしょうか?

わかりません。ですが、要求するとすれば、たぶん次のようなことになるでしょう。各々の子どもの教育的達成が人種や性別や階層経験によって影響を受けないこと。自然的才能に相対的に恵まれていないと認められる者たちの教育にたいして、相対的に才能に恵まれていると認められる者たちの教育にたいしてよりも、かなり多くの資源が差し向けられること。さらに次のことを付け加えておかねばなりません。教育的平等の存在を信じるとしても、その実現に向けてのわたしたちの努力は、ロールズが基本的な自由と家庭の価値と呼んでいるものによって、原理的に制約される、とわたしは思います。すなわち、教育的平等を促進するために、家庭の価値を重大な危機にさらすようないかなる手段、あるいは基本的な個人の自由(人の身体的および心理的なインテグリティと結びついているような)を侵害するようないかなる手段も許されるべきではない。幸いなことに、このことは国家に大きな活動の余地を与えます。すなわち、国家は、所得や富を平等化することができますし、また、いかなる基本的自由をも侵害することなく、貧しい者や相対的に能力の劣る者等々の教育に差し向けられる資源を増やすことができます。


−−息子の私的教育のための資金を親に貸し付けること(ヴァウチャー)をめぐる今日のさまざまな政治的議論にかんするお考えをお聞かせください。そうした議論は望みがあり実行可能であると、また親にとって適切なオルタナティヴであるとみなされますか?

息子の私的教育のための親への貸し付け(ヴァウチャー)にかんする諸々の政治的論議はわたしの気を滅入らせるに十分です。浮かんでくるテーマがここにありますか? この本を書いた動機の一部は、選択制反対論者たちはその効果にかんして抑えの効かないほど悲観的(そして現状にかんしては楽観的)であるのを常としており、選択制賛成論者たちはその逆である、とわたしが考えているところにあります。左翼にとっての出発点は次のようなものである必要があります。すなわち、富者や狂信者にとっての選択制はすでに存在しており、他方では貧者はより少ない資源で運営されるより劣悪な学校しかもたない。この文脈のなかで、選択制かヴァウチャーかということで助けになるでしょうか? イエスと答えたとするなら、その場合には、答えた人は、実行可能でより得るところの多い別の諸々の改革をごっちゃにしているのでしょうか? 「貧しい人々はシステムに騙されるから、(裕福な人々がおこなうようには)選択をおこなうはずがない」などというのは侮辱だとわたしは思います。たぶん彼らはそうでしょう。しかし、すべては選択システムがどのように計画されるかにかかっているのですから、このことについて予め知ることはできません。もちろん、わたしは、ヴァウチャーを使ってであろうとなかろうと、国内の諸都市に住んでいる人々は、選択によって、あるいは必然的に、子どもを学ばせるためにどこに通わせるかということにかんして幅広い多様なオプションをもつべきであり、その特権にたいして対価を支払う必要がないようにすべきだ、と考えています。左翼だと言われている人々がこれを否定するとき、わたしは驚いてしまいます。専門エリートの子どもたちは郊外の私立学校に就学しているのに、わたしたちの貧しい都市に住む多くの子どもたちは基準を下回る学校に通っています。子どもを前者の学校に通わせ、かなりのレベルの選択をおこなう−−とくに、自分の子どもを脅えさせている学校から高価なコストをかけて逃れることができる−−、そのような親たちについて言えば、それはパターナリズムであり、エリーティズムであるのように思われます。現在、ヴァウチャーは、必ずしも、最良の選択メカニズムではありません。すべては選択システムの設計と使用可能な資金の水準とその他の文脈的な諸問題にかかっているのです。

他方、学校選択反対論者たちは、教育の公的規制のプロジェクト全体にたいする敵意を露わにし、また、ヴァウチャーのコスト削減効果を強調するケースもありますが、そのとき、学校選択賛成論者たちは、しばしば、反対論者たちの最悪の悪夢から栄養を摂取しているのです(たとえば、ミルトン・フリードマン Milton Friedman は、まず、コストを削減し労働組合のどんちゃん騒ぎを遮ろうと明らかに欲している。だが、彼がそうするのは、結局のところ、機会の平等への影響を彼が心配しているからである)。合州国が、他の国々と比較すると、生徒一人当たりより多くを費やしているというのはそのとおりです。しかし、そのための理由にはあらゆるタイプのものが存在しています。それらの理由は、将来われわれが何を為そうと、消えて無くなることはないでしょう。たとえば、深い才能のゆえに教える資格能力をもつ専門職における例外的に高い給料、特別の必要をもつ子どもたちに資金を支出するという決定、もっともそれを必要としている子どもたちの大部分向けの適切な保健システムの欠如、人種差別および黒人差別の伝統、極端に高水準の移民およびそれに起因するさまざまな必要、スポーツや劇場などへの高水準の出費、高い犯罪率ならびに取り締まりに重い出費を要する銃火器の偏在・・・いくらでも続けることができます。相対的に恵まれていない子どもたちの学校教育にたいして、われわれが今支出しているよりもっと多くを費やす必要もなしに、そうした子どもたちのためのよりよい教育を期待することがどうしてできようか、わたしにはわかりません。短期的および中期的に、学校教育への貨幣支出の総量を増やすことなくこのことが可能になるなどということが、政治的に見込みがあるとは、わたしは思いません。わたしは、次の点においてヴァウチャー反対論者たちと同じ意見です。すなわち、システムには多くの「無駄」があるが(もっとも、どこにその無駄があるのかということについては、わたしと意見が一致しない論者もいそうですが)、しかし、実際には、資金をカットするということは、より多くの必要をもつ子どもたち向けの実質的な資源がより少なくなるということに通じる。

さて、以上のことは、ヴァウチャーの問題にかんして、わたしをどこに置くのか? システムにおいて親のより大きな選択権を欲するということにかんしては、わたしの態度はハッキリしていますが、しかし、ヴァウチャーにかんしてはアンピヴァレントです。財政的に大いに支援され、しかるべく規制されたヴァウチャーのプランは、おそらく、擁護されるに値するでしょう。財政措置が貧しく規制もないヴァウチャーのプランは、おそらく、それに値しないでしょう。しかるべく方向づけられたヴァウチャーのプランは普遍的なプランよりも好ましいし(ただし、選択制はすべての人々に向けられたシステムの要件であるべきだ)、また、ヴァウチャーのプランをもつ学区においては公立学校間の選択もまた可能であるべきだとわたしは考えます。言うならば、現在のヴァウチャー提案の行く末が示しているのは、実際に実施されるためには、ヴァウチャーのプランは十分に方向づけられリーズナブルに寛容である必要があるということです。しかし、論議は、ヴァウチャーそのものをめぐるだけにとどまっていてはならないでしょう。すなわち、いかなるタイプの選択制を親がもつべきだとわたしたちは考えるのか、どのくらいの額を費やすべきなのか、そしてそれをどのように分配すべきなのか、ということにかんする論議でなければならなりません。左翼はこの論議に参加する必要があります。そして、個々のヴァウチャー提案を評価するにさいしては、市場にかんする先入観によらず、もっとも恵まれない者たちにヴァウチャーがもたらす諸々の効果にかんするしかりと導かれた判断にもとづ貸せる必要があります。


−−多様性のリーズナブルな形態のための寛容、そして差異の尊重は、おそらく、リベラリズムの市民的アジェンダの中心的な政治的徳目でしょう。理論的に言うなら、若者を教育するとき、多様性にたいするこの開放性を促進させるために、教育者はどのように振る舞うべきなのでしょう?

子どもたちは皆それぞれ、自分の生をいかに生きるのかということにかんして自ら決定することを可能にするような推論の諸能力と批判的な思考を学ぶ権利をもっています。その権利を実現するために、わたしたちは、さまざまな実践と生き方の多様性を彼らに教え、彼ら自身の決定が十分な情報に裏づけられたものになるようにしてやる必要があります。多様性は重要であり、人格の自律性という目的に資するものだ、とわたしは思います。しかし、それ自体としてそれ単独で善であるというわけではありません。すなわち、わたしたちが多様性と友好的でなければならない理由は、人々が自分にとっての善き生を送ることができるようにしてやる必要性と関係しています。個人の体質や気質にもまた大きな多様性が存在しているという事実のゆえに、わたしたちが自律性に向けて教育するときには、生の実践と行路には大きな多様性がつねに存在しているでしょうが、それでもやはり、わたしたちは善き生をおくれるようにしてやる必要があるのです。

自律性のなかで個人のインタレストをわたしが強調する理由は、この問いに答えるとしますと、それは、多様性はしばしば曖昧なかたちで、あたかもそれ自体として重要であるかのように、また時には、人格の自律性よりも重要であるかのように、コメントされるという点にあります。この二つの立場はどちらも正しくありません。すべての人々が自分にふさわしくないような生き方に捕らわれたままであるならば、多様性は画一性よりもよくないかもしれません。そのようなケースにおいては、多様性は、道徳的にではなく審美的に選好されかねないさまざまなタイプの有毒物の増殖を意味することになるでしょう。人々が送る生き方のなかに善が存在する場合にのみ多様性はよきものなのです。混合物に三つの無意味な生き方を追加すれば、多様性は増すでしょうが、価値は増しません。

わたしがもう一つ強調したいのは、個人の自律性をしかるべく焦点化している以上、教室の中においてであろうと、公共の場においてであろうと、多様性への関心が、子どもたちには、自分の親の生き方を体現したり、その生き方にとどまったりする義務があるなどと想定するといったかたちをとることはけっしてあってはならない、ということです。クリスチャンの家庭で育てられた子どもが、ムスリムの利益のためにではなく、自分自身のために、イスラム教にかんしてなにがしかを学ぶということは、決定的に重要です。同じように、無神論者の家庭で育てられた子どもたちは(わたしの子どももそうですが)、宗教的な生き方にかんしてなにがしかを学ぶべきです(私見では、それらの生き方に熟達した人から学ぶべきです)。ただし、それは、クリスチャンやムスリムを尊ぶことができるようになるためではなく、そうした生き方が、たとえ親は無信仰であっても、彼らにとっての現実的なオプションを示すからです。このことは教授法にとっても重要です。すなわち、わたしたちは、子どもたちにたいして生き方を示すのは、他の人々の生き方が生の善い経験悪い経験の一部をなすからではなく、生きられた現実の経験は彼らにとって十分に適切なものとなりうるからなのです。

自律的な人ですらも、おそらく、他人の生き方よりも、自分がその中で育てられた生き方の呼びかけにたいして注意深いでしょうし、また、おそらく、自分の直接的な環境における諸々のオルタナティヴは、はるか離れた文化よりも、自由に使えるでしょう。自律的な人は、完全に開かれた未来をもっているわけではありませんし、またもつことができるわけでもありません。しかし、未来を、あたかもいかなる特定のオルタナティヴも自分には閉ざされているかのように取り扱う必要は誰にもありませんし、また、もちろん、自分がその中に生まれた文化や生き方が、あたかも、正真正銘の自分自身の生き方であるかのように、取り扱われるべきでもありません。

わたしには、自分が多文化主義の一種のカリカチュアを相手にして答えているように思われます。また、諸々の観念は深刻な問題を抱え込んでおり、感銘を受けることはめったにありません。しかし、わたしは、わたしの学生たちの間で、また、出会う教師たちの間で、こうした種類の観念に向き合わされるのです。わたしは、こうした問いに大いに慎重である必要がある、と感じています。


−−では、多文化主義は平等と関係があるとお考えなのですか?

平等主義的なあるいはリベラルないかなるプロジェクトも、多文化主義的な風味をもつことになるでしょう。なぜなら、人間は、自由で平等であることを認められるとき、よりよい生き方にかんして意見を異にするでしょうから。そして、その不一致は人々の選択において現実のものとなるでしょう。しかし、多文化主義は、平等と自由のひとつの効果であって、基本的あるいは根本的な原理ではありません。同様に、平等主義的な教育も、多文化主義的な風味をもつことになるでしょう。教師たちや諸々の学校は、個々の子どもの必要に敏感でなければなりませんから。学校にたいして同等な者として所属意識をもつということも、その必要性に含まれます。これらの子どもたちの家庭の信条や態度を軽んじて見下したり脅したりするとき、この意識は危機にさらされかねません。しかし、わたしたちが政策の立案者として関心を寄せるべきは、諸個人の必要であって、彼らの文化の存続や彼らの家庭のインタレストではありません。また、わたしが述べているとおり、子どもたちが生まれ落ちた文化に制約されると考えるのは誤りです。すなわち、正義にかなった多文化主義的な社会のなかでは、教育者たちは、子どもたちを、いずれ世界のなかで自分の道を創り出すことになる未来的に自律的な人格として取り扱うよう義務づけられています。子どもたちは、自分の家庭の文化的な信条や実践から離れていくかもしれませんし、それらの信条や実践の進展に貢献しているかもしれません。


−−ナショナル・スタンダードにかんするご意見をお聞かせください。

国家的およびナショナルな範囲におけるスタンダードにかんする論議は、あけすけに言えば、多くの面で、がっかりさせられます。学校教育のためのナショナル・スタンダードを望み、学校がそれらのスタンダードにたいして責任を負うことを望む的確な理由はいくつかあります。スタンダードは、教師たちが自分の授業を計画するのに、また、生徒たちから何を期待するのがリーズナブルであるのかを知るのに役立ちます。さらに、生徒たちが、そしてそれより重要なことですが、親たちが、自分の学校で提供される授業を評価するのに役立ちます。外部からの等級化や、あるいは等級化の適正化は、教師たちから大きな重荷を取り除きますし、親と生徒と教師のインタレストを再調整するのに役立ちます。親と生徒のインタレストは、可能な範囲で最良の評価を得ることです。教師のインタレストは、差し出されたアカデミック・スタンダードにたいして子どもたちがそれを責任もって果たせるようにしてやること、また生徒たちにスタンダードを達成させるように自らの等級化システムを計画することにあります。決定的な評価が外部的な適正化なしに教師によって下される場合、親と生徒は良い評価を得る二つの方法があるということを知っています。一つは一生懸命勉強すること、もう一つはその生徒の評価を上げるよう教師に頑張って頼み込むこと。わたしはこのことにかんするいかなる研究も知りませんが、しかし、巨大な圧力をかける親や行政官がいて、この圧力の生で教師の時間(そして生徒たちの時間)が無駄にされており、多くの教師が、達成に応じて評価する代わりに、こうした圧力に応えて評価を上げる、ということは知っています。たとえ、すべての教師がこの圧力にたいして英雄的に抵抗したとしても、それは大いなる努力と資源の損失となるでしょう。生徒が成功するという結果を得るために親の努力が用いられうるようにするために、外部的な適正化が諸々のインタレストを調整するのです。

相対的に深刻な必要があるのに資源が不適切であるような生徒たちを抱える学校は、相対的に深刻でない必要をもち多くの資源をもつ生徒たちを抱える学校と比較した場合、不利な評価を受けるので、スタンダードは退けられなければなならない、という議論がしばしばみられます。さらにまた、スタンダードは不十分であるとみなされなければならない、という議論も見受けます。この議論はわたしには馬鹿げているように思われます。高度な必要をもつ生徒たちのための資源が乏しい学校は、すでに、しばしば十分な証拠もないまま、スタンダードを下回っていると宣告され観察されています。スタンダードは、重大な必要をもつ生徒たちがこれまで手にしてきたよりも多くの資源を手にすべきだとする政治的議論を引き起こす素晴らしいフォーラムを開設することになるでしょう。そして、このフォーラムは、生徒一人当たりの財政資金や生徒たちの社会経済的必要に責任を負う学校間の比較をもたらすように、うまく運営されるでしょう。

とくにわたしがショックを受けているのは、すべての生徒たちのための教育的平等を明示的に擁護する左翼の人々が、ローカル・デモクラティック・コントロールの名のもとに、スタンダードを拒絶しているということです。周知のように、最近のそれはさほどデモクラティックではありません。というのも、とりわけ教育委員会の構成やその選出は特殊なインタレストを引きつけており、普通の選挙人たちを遠ざけているからです。また、いずれにせよ、ローカル・コントロールはローカル・ファイナンスメントのコロラリーであり、そしてそれは著しく不平等なのです。ローカル・コントロールの文脈のなかでローカル・ファイナンスメントからどうすれば解放されるのか、わたしにはわかりません。

このように、わたしは、スタンダードにたいする異議はきわめて幻滅を誘うものだと思います。しかし、スタンダード賛成の運動は、これもまたしばしば幻滅を誘います。第一に、この運動の政治家たちは、きわめてしばしば、反スタンダード運動の懸念と粗雑な認知を糧としており、あたかも教師と学校のコントロールに主要な関心を寄せているかのように聞こえます。しかし、合州国の教育システムは、先進国のなかでもっとも拡散的な非スタンダードのシステムでもあり、州あるいは連邦レベルのスタンダードはごく最近のものです。他の諸国は、われわれにも使える広範な経験を積んでいます。そしてその間、計画の準備に責任を負う政府は、委員会を指導するにさいして、ナショナル・スタンダードを伴う実経験の見習い期間をほとんど設けませんでした。


−−ある論文のなかで、芸術や文化にたいする政府の支援を推奨なさっていますね。イングランドでは、政府が大いに芸術を奨励し支援しています。主要な争点は何なのでしょう? また、どうすれば、われわれは、文化や芸術をよりよく奨励することができるのでしょう?

すでに申し上げたように、国家による芸術の後援を正当化するのはむずかしいと考えます。少なくとも、合州国やその他多くの国々でおこなわれているような形態においては。合州国における第一のもっとも重要なポイントは、政府のプライオリティの問題にかかわっています。すべての子どもたちにとってふさわしい医療援助を提供するということは、明らかに正義にかかわる差し迫った問題です。芸術にたいする後援をこれと同じように差し迫ったと感じられるものであると考えるのは困難です。しかし、もっと根本的な問題が存在します。国家による芸術の後援を正当化しようとする試みの大多数は、これが公共善を提供するだろう、と断言します。政府の行為の公共善による正当化は二つの異議に直面します。すなわち、芸術は真に公共善であり、それに純粋に貢献すればすべての人々がそこから便益をもたらされる、ということを示す必要があります。また、その善は純粋に公共的だとリーズナブルな人々が判断しうるために、透明な援助メカニズムを想定する必要があります。これは、実現するのが信じられないくらい困難なことです。そして、あなたが言及された本の中でその理由を詳しく述べております。

それにもかかわらず、これもまた説明しておりますが、芸術にたいする多額の後援は−−合州国が現在提供しているよりもずっと多くの後援が−−、子どもたちの根本的なインタレストに注意が払われるときには、正当化されうるのです。自律的な人格になる、そして純粋に自分自身のものであるような嗜好と選好をもつようになる、という子どもたちのインタレストは、芸術にいつでも触れられるような環境なのかで子どもたちが育てられることに、承認を与えます。このことは、芸術にたいする国家による多額の後援を支持し、そしてまた、子どもたちの正義に関連したインタレストが含意されているのですから、この正当化は、公共善にもとづく正当化が直面する異議には直面しません。

政府が何を為すべきかということにかんして精緻なアイデアを持ち合わせているわけではありませんが、子どもにとってのテレビについて人々の注意を促しておきましょう。テレビは大多数の子どもたちの生活において信じられないくらい重要な役割を演じています。そして、このことは、とても早い年齢時から、子どもたちの膨大な空き時間が人々によって間接的にコントロールされている、ということを意味します。これらの人々の動機とインタレストは、子どもたちの空き時間と自由にできる所得の使い方にかんして、彼らの(および自律性の発展)を浸食することにあります。わたしは、政府が為すべきこと為しうること、にかんして確かなものをもっているわけではありませんが、無防備のテレビのさまざまなコマーシャルの時間の供給は、その質にかんして確認したうえで、子どもたちの視聴のピークの時間帯には最小限にとどめるべきです。少なくとも、sandwich children's television がPBS(公共放送サービス)で流す宣伝を取り除く方法は存在しうるでしょう。もちろん、NEA(全米教育協会)がおこなうことで、これよりも重要なことはありません。もっとずっとラディカルな手段があればわたしも支持するでしょうが、この戦線におけるラディカルな要求をめぐっていかなるタイプの連携が形成されうるのか、わたしにはわかりません。


−−アメリカとイングランドの教員団体にかんしてコメントしていただけますか? 学校における「正義」を援助するのでしょうか、それとも妨害するのでしょうか?

わたし自身の経験の量からして、合州国における組合の役割にかんしてのほうが、イングランドのそれにかんしてよりもコメントしやすいと感じます。組合にかんして一般的に語るのはとてもむずかしいですが、その理由は、たんに、歴史的な態度を大いに異にする二つの全国組織が存在しているからというだけではなく、われわれの20000もの学区の各々がさまざまな地方組織をもっており、それぞれが独自の地方色をもっているからでもあります。しかし、わたしに与えられた時間は限られていますから、今は一般化してお話ししなければなりません。ですから、経験的な一般化として語られているんだと受けとってください。

組合は矛盾した役割を演じていると思います。一方において、教師の給料を正義にかなった水準に保つべく、さらには、全体としての運動のために組合への結集を維持するのを助けるべく活動します。他方で、組合はきわめて保守的であり、学区の学校としばしば共謀して、学区統治のまるで不平等な特性を維持しています。たとえば、大多数の協定は、すでに一定期間その職にあった志願者を優先するという異動規程を含んでおり、そのことが、相対的に望ましい学校(相対的に少ないニーズをもつ子どもたちを抱える学校)への相対的に経験豊かな教師たちの集中を招いています。同じように、組合は、もっぱら在職年数の古さを基礎とした支払いのほうを好みますから、深刻なニーズをもつ子どもたちを抱える学校に優秀な教師を引きつけるような支払いのインセンティヴを実施することは、むずかしくなっています。組合の全国本部は、共通利害のために学区と手を結ぶことをめざす傾向がこの間ずっと強く続いてきています。また(とくに NEA において)、Saturn/UAW スタイルの新しい労働組合を採用しようという姿勢が強まってきています。それと同時に、組合は、選択制ならびにヴァウチャー制にかんする論争において、きわめて破壊的な役割を果たしてきています。

しかし、思うに、地方によっては、組合員たちはさまざまな問題を前にして窮地に陥っているでしょう。たとえば多くの人々は次のように考えています。すなわち、なんらかのかたちのメリット・ペイが適切である−−優秀な教師に報いる、才能あふれる人材を職に引きつける、深刻なニーズをもつ子どもたちを抱える学校で教えるためのインセンティヴを与える。しかし、組合員たちは、行政側が正しい判断をくだすとは期待していません(教育行政の担当者たちはよい教職員を判定する資格・能力をもつ裁判官ではないことを示すたくさんの証拠をもっているからです)。また、彼らは潜在的な意見の不一致を恐れており、メリット・ペイにかんする決定をくだす同業者の追加的仕事を危惧しています。ほかのさまざまな改革と同じように、組合は、何が組合員の最善のインタレストであり学校における正義であるのかにかんしてきちんと研究したうえで立場を定めることをせずに、改革には基本的に反対し、そして、政治的に必要な場合には歩み寄る、という印象をしばしば受けます。


−−誰があなたの思想に影響を与えましたか? よき師をあげてください。

今日の政治哲学者がみなそうであるように、わたしも、ジョン・ロールズ John Rawls の『正義論』の影のなかで研究しており、この本はわたしの研究の主要な部分にきわめて直接的な影響を与えているのではないかと思います。わたしの同僚であるアンドリュー・レヴァイン Andrew Levine が言うように、あなたがこの分野で研究している場合には、あなたは、ロールズの研究に応えるか、さもなくば応えない理由を説明する必要がある、という意味において、ロールズは「ディシプリンを変えた」のです。ロールズの著作にかんしては、のちほど手短にもっと実質的にお話しすることにしましょう。わたしの本を読む人は誰でも等しく、政治哲学の外ではあまりよく知られていない人物、ジョゼフ・ラズ Joseph Raz の影響を発見なさることでしょう。ラズは、人格の自律性に高い位置づけをを与えるにさいして、ロールズのそれよりももっと明瞭な正義の記述を展開しました。それは、弱い卓越主義理論であり、自律性は、善き生の構成要素ではないとしても、現代社会において善き生を生きるための前提要件である、とするものです。自律性を促進する教育を支持する本書におけるわたしの議論はラズに多大な影響を受けています。実は、たぶんラズは同意しないでしょうが、本書は、彼のヴィジョンの教育的含意を敷衍する以上のことはほとんどやっていない、と思っています。ラズの研究は別のやり方でも−−スーザン・モラー・オーキン Susan Moller Okin のそれとともに−−わたしに影響を与えました。すなわち、現実世界の諸問題にたいして、とりわけ制度設計のリアリティにたいして敏感であるようなスキルの政治哲学を実践するようにとのインスピレーションをわたしに吹き込みました。

大学院時代に、わたしは、マルクス主義者と呼ばれる人々(ジョン・レーマー John Roemer 、G. A. コーエン G. A. Cohen 、Adam Przeworski、ロバート・ブレナー Robert Brenner といった人々)の研究に出会い、これもまたわたしに大きな影響を与えました。わたしの研究は伝統的にマルクス主義的なテーマを(少なくとも大きくは)扱っていませんが、わたしの方法、そして、政治的コミットメントの外部でトピックを選ぶ知的自由の感覚は(これらのトピックの追求がわたしをどこに連れて行くかにびくびくすることなくそれらを追求する)、二人の人物−−エリック・オーリン・ライト Erik Olin Wright とアンドリュー・レヴァイン−−の研究に多大な影響を受けています。それ以来、マディソンにおいてわたしはさまざまな人々を同僚として得てきました。また、もう一人の同僚ダニエル・ハウスマン Daniel Hausman は、学校選択にかんする本を書くようわたしにプレッシャーをかけてくれました。彼らは、容赦なく、専門的にまた個人的にわたしを支えてくれる人々でしたし、今もそうです。

同じく大学院生の頃、わたしは、いうまでもなく、わたしの指導教授たちに大きな影響を受けました。−−わたしは、よき教授たち、大学院のカリキュラムは、人の思考のバビトゥスにたいして、また人が自分自身のために保持する諸々の規準にたいして、大きな、きわめて持続的な影響をたぶん及ぼすのではないか、と思います。わたしはバーバラ・ハーマン Barbara Herman の指導を受けました。もっとも重要な研究の一つはカント倫理学でした。彼女の規準はわたしの知るかぎり最高のものですし、彼女の仕事は現代の道徳哲学の最大の美徳のいくつかを示しています。すなわち、哲学において(そしてそれゆえに人文科学において)もっとも困難な問題としてわたしが出会うものにかんして、厳格に、しかし想像力を駆使して思考すること。わたしは、厳格さに応えようというアスピレーションは持ち合わせていますが、想像性に応えようというそれは持ち合わせていません。そして、バーバラ・ハーマンがわたしに十分に教えたことは、知的な弱さを認め、それににかんして誠実であれ、また、できなかったのにできたふりをするな、ということでした。

別の影響のことを述べたいと思います。それは、悲しむべきことですが、わたしの世代の知識人たち−−ソーシャリスト・フェミニスト・ソリダリティという組織におけるわたしの政治的仲間たち−−のあいだで共有されているわけではありません。わたしは彼女/彼らともにたくさんのことを学びました。それらは、わたしの知的仕事には厳密には重要でないものですが、しかし、いずれにせよそこにはたくさんのものがあります。わたしは、分析的マルクス主義の仕事に出会う前には、この運動とほとんど関係を持ちませんでしたし、ソリダリティは−−とくにジョアンナ・ミスニク Janna Misnik とピーター・ランドン Peter Landon というリーダーたちは−−、左翼においては何ごともオフ・リミッツであってはならない、厳格な思想をけっして恐れてはならない、という決意を強化していました。民主主義について、政治的判断の役割についてもたくさんのことを学びました。そのことは、リベラルで民主主義的な諸権利にかんするわたしの研究においてときわめて重要でしたし、今もそうです。左翼のグループによくある性質からして、わたしの政治的係累がわたしの研究に影響を及ぼしているのはそのとおりだが、わたしの実質的な見解はわたし自身のものであって、わたしの仲間同僚に帰せられるべきではない、ということを強調しておくのはとくに重要です。


−−著書『Political Liberalism』のなかで、ロールズ( Rawls )は、「子どもの教育にたいする社会の関心は、未来の市民としての彼らの役割に存しており、したがって、彼らが公共的文化を理解しその諸制度に参加する力量を獲得すること(・・・)彼らがもろもろの政治的徳を発展させること(・・・)といった必要不可欠なことがらのうちに存している」(p.200)と述べています。今日、教育にかんして、ロールズの諸理念の最大の貢献は何でしょう。

主要な貢献は三つです。第一に、ロールズの公正な機会均等のコンセプションは、教育の平等についてのより強いコンセプションからの機会の平等の独立、いかなる国の教育制度においても認められてこなかった独立を際立たせます。第二に、二つの道徳的能力−−正義感にたいする能力と善のコンセプションにたいする能力−−を備えた人格という彼のコンセプションは、子どもたちが受けるべき教育のタイプにとって、また、親と国家とのあいだにおける子どもの教育にかんする権限の分割にとって、重要な含意をもっています。第三に、より重要(だけど一番見えにくい)こと。すなわち、具体的な政治的諸問題に向かって規範的政治哲学を開くにさいして、ロールズは、教育理論が公教育の規範的な支持にかんして厳密に考えることを可能にしました。彼のアイディアの重要性にかんしてこれ以上申し上げるのにはためらいを感じます。−−しかし、教育にかんする政治哲学の最近の諸研究のどれかひとつをご覧になれば(イーモン・キャラン Eamonn Callan 、エイミー・ガットマン、マイラ・レヴィンソン Meira Levinson 、ランディ・カレン Randy Curren 、わたし自身、などなどの)、そうした重要性にかんしてなにがしかおわかりになるでしょう。ついでに申し上げると、医療倫理、国際関係、その他多くの応用的諸問題にかんして考察している政治哲学者の研究についても同じことが言えます。


−−ほかに何かわたしたちがお聞きしなければならなかった質問があるでしょうか?

ひょっとしたら。でも、わたしは何も思いつきません。それに、ロールズにたいする先の賛辞が終わりを告げる美しい調べになっていますよ。

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