「実践的指導力」とその周辺 ― 養成課程に求められること ―

道私教協第25回研究大会(2005年7月10日)   田原 宏人(札幌大学)
要旨

今日「実践的指導力」は教育界の内外を問わず教育(改革)を語るさいのキーワードの一つとなっている。発表ではまず、この用語が明確な定義を与えられていないということを確認したうえで、その来歴をたどることにより、その意味するところがこの用語が使用される文脈に依存する傾向にあることを指摘する。にもかかわらず、この用語は立場の如何を問わず広範に受容されてきているようにみえる。そこで、この事態を解きほぐすために、次いでこの用語を構成する単語に分解し一種の言説分析 ― その用語が通用するための条件を与えている共通の土俵を抽出する作業 ― を試みる。その作業をつうじて、「実践的指導力」がもっぱら属人的ななにものかとして想定されていることの問題性を指摘する。言い換えれば、実際の教育活動の成否が、当該活動が遂行される個別的文脈に依存していることの自覚の重要性を強調する。他の専門職における専門性とは異なる教職に固有の専門性の源泉の一つは教育のこの事実にある。したがって、教職課程においても、個々の受講生が将来教員になるか否かにかかわらず、そこでの教育はこのことの自覚をいかに促すかに意を用いなければならないということを主張する。

「実践的指導力」の未定義

下の図は文部科学省が近年配布したパンフレット『魅力ある教員を求めて』(表紙とも20ページ)の一部であり、いわゆる資質能力の構成を示すこの図は、1997年の教育職員養成審議会(教養審)答申「新たな時代に向けた教員養成の改善方策について」の該当部分を忠実に再現したものである(「教科書等に関する専門知識」は「教科等に関する専門知識」の誤写であろう)。さらに、この図の左半分は先立つ1987年答申「教員の資質能力の向上方策等について」の忠実な模写となっている。

今、図の右半分をしばらく措くとすれば、教員の資質能力とは一般には「実践的指導力」にほかならないと受けとめられている(参考『現代教育方法事典』2004年の「教師の資質能力」の項: 山ア準二)。こうした理解は、上記パンフレットが教員養成を紹介する部分の見出しを「使命感と実践的指導力を備えた教員を育てる」としていることとも整合的である。要するに、教員に求められる資質能力は何かという問いにたいする最も短い答えが「実践的指導力」なのである。

さて、その「実践的指導資力」について、公式見解によれば、それは「これらに基づく」のであるから、
    使命感 + 深い理解 + 教育的愛情 + 専門的知識 + 教養 ≠ 実践的指導力
    実践的指導力 = α(使命感 + 深い理解 + 教育的愛情 + 専門的知識 + 教養)
とみなすのが自然であろう。

ところが、「実践的指導力」を「実践的指導力」たらしめている肝心のαが必ずしも明快に示されていないので、「実践的指導力」とは何かという問い答えるのはむずかしい。したがって、それを事実上「すべて」であるとみなす次のような記述も無理からぬところであろう。

とりわけ求められる教師の資質・能力としては、教師の総合的な実践的指導力が求められている。実践的指導力の内容については、多様な見解があろうが、ここではとりあえず「教科指導・生徒指導・学級経営・地域教育等の教育実践に関する包括的な指導力を兼ね備え、子ども・学校・地域の実態に合わせて柔軟かつ創造的に指導内容・方法を採用し、それを遂行する能力」としておきたい。すなわち学級経営・生徒指導・教科指導や校務分掌など、どれかにのみ通じる能力ではなく、トータルな遂行能力が求められている。(教師教育学会大会(2005年9月開催)における公開シンポジウム「教師の実践的指導力の養成と地域連携」のテーマ説明より引用 http://www.kus.hokkyodai.ac.jp/users/hirota/kyoushikyouiku/summary01.html)

「実践的指導力」の来歴

さらにさかのぼれば、87年答申の「実践的指導力」観は、86年の臨時教育審議会(臨教審)第二次答申を下敷きにしたものであった。同答申にはたとえば、「人間愛や児童・生徒に対する教育的愛情を基盤とする広く豊かな教養、教育の理念や人間の成長・発達についての深い理解、教科等に関する専門的知識、そしてそれらの上に立つ実践的な指導力」という記述が見られ、「大学の養成においては、幅広い人間性、教科・教職に必要とされる基礎的・理論的内容と採用後に必要とされる実践的指導力の基礎の修得に重点を置き、採用後の研修においては、それらの上に立ってさらに実践的指導力を向上させることに重点を置くこととする」と述べられている。

教員の資質能力にかんするこうした見解の系譜は、83年の教養審答申「教員の養成及び免許制度の改善について」、78年の中央教育審議会(中教審)答申「教員の資質能力の向上について」、72年の教養審「教員養成の改善方策について(建議)」へと遡行可能である。72年の建議には次のように述べられている。

教職は、教育者としての使命感と深い教育的愛情を基盤として、広い一般的教養、教科に関する専門的学力、教育理念・方法および人間の成長や発達についての深い理解、すぐれた教育技術などが総合されていることが要請される高度の専門的職業である。このような資質能力はその養成の段階のみならず、教員としての体験や研修の過程を通じて形成され向上が図られていくものである。

以下、「使命感」「教育的愛情」「教養」「教科専門」「発達理解」その他を五点セットと略称する。ただし、建議には「実践的指導力」の用語は見られない。「実際的な指導能力」という用語は見られるが、この用語は研修の項に顔を出している。それは、中教審71年答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」における「教員としての自覚を高め、実際的な指導能力の向上をはかるため、まず新任教員の現職教育を充実する・・・」を受けたものである。この「実際的な指導能力」が後の「実践的指導力」の原型であると推測される。

「実際的(実践的)」が養成課程にかかわって明示的に語られ始めるのは、78年中教審答申以降である。答申は、「国民の間には、教員に対して、広い教養、豊かな人間性、深い教育的愛情、教育者としての使命感、充実した指導力、児童・生徒との心の触れ合いなどをいっそう求める声が強い」と五点セットを援用する一方、「実際の指導力」の向上を力説する。そして、教員養成についても、「高等教育の規模の拡大とともに教員免許状を取得する者実際に教職に就く者との数に著しい開きが生じ、教育実習その他実際の指導力を養うための教育に不十分な面がみられる」と指摘する。

これ以降、教員養成に「実際的(実践的)」であることがしきりに求められるようになっていく。たとえば、自由民主党政務調査会文教部会教員問題小委員会は81年「教員の資質向上に関する提言」をとりまとめ、そのなかで、「教員養成にとってとくに大切」なのは「教育実習その他実践的な指導力を涵養する教育」であるとし、同様の観点から「教職に要求される強い情熱と優れた実践的指導力を十分に身につけさせるためには、豊富な教育現場の体験を得させることが重要である」といわゆる試補制度の導入を提言している。

五点セットを「実践的指導力」の基礎として位置づけた前述の86年臨教審第二次答申はこれらの流れの集大成として位置づけることができよう。背景には、都道府県教育長協議会第三部会が82年に著した意見書「教員採用の在り方」が「近年の生徒指導上の諸問題に対処し得る幅広い教養と実践力」と記しているように、「教育問題」の噴出という認識が横たわっていたものと推察される。臨教審答申の「実践的指導力」もまた「現在の諸課題を踏まえ、今後の社会の変化を展望しつつ、そのあり方を変える」ために提起されたのであった。(「3年B組 金八先生」第一シリーズのオンエア(1979年)と重なる。「教育荒廃」言説については広田照幸『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店、2005 を参照されたい。ここでは触れない)。

小括

最初に紹介したパンフレット(したがって教養審97年答申)の右半分「今後特に求められる資質能力」は、「実践的指導力」の沿革に照らせば、当初からその中に包摂されることが予定されていたとみなすのが妥当であろう。97年答申の構図には、87年答申に基づく教職課程カリキュラムの改訂から時を置かずして、再び同趣旨の大幅改訂を実施する根拠を与えるための便宜といった色合いのほうがむしろ濃い。 最近の「実践的指導力と高度な専門性」を謳い文句とする専門職大学院の提唱においても、これと同様の効果が期待されているのかもしれない。「高度な専門性」が「実践的指導力」と相互に並立可能な相対的に独立した理念であるとはちょっと想像できないからである。

いずれにしても、「実践的指導力」は用語として確立している。しかしながら、すでに述べたように、五点セットがいかにして「実践的指導力」に昇格するのかについては依然として分明ではない。各地の教育委員会が主催する研修のテーマに頻出する「使命感と実践的指導力」は、要するに、「実践的指導力」とはパッション以外のすべてであるということの反映にほかならず、「実践的指導力」を明確に限定する内包的定義は未だ存在していないのである。

もちろん、「実践的指導力」が何を指しているのかを枚挙的に示すことは可能である。教職課程カリキュラムに即していえば、たとえば「教育実習」で身につくことが期待されている何か、「教育相談論」や「生徒指導論」「進路指導論」で身につくことが期待されている何かがそれにあたる。とはいえ、ここに例示した「教育実習」とその他の間には無視できないちがいが認められる。「教育相談論」が生徒指導実践に役立つのだとするならば、個に応じた指導の手引書のそこかしこに出現するプログラム学習を教えていたかつての「教育原理」もまた立派に「実践的指導力」の形成に資するものだということになろう。結果的に、「実践的指導力」の焦点は再びぼやけてしまう。

共通の土俵

「実践的指導力」が形を整えようとしていた80年前後の教員養成をめぐる動向は、全国私立大学教職課程研究連絡協議会(全私教協)結成のきっかけの一つを与えた。結成時の主要メンバーはこうした動きを次のようにとらえていた。

これはまさに、日本の初等中等学校の教師全体に対する、お上からの重大な''訓辞''であり、厳しいお説教である。・・・/そもそも、こうした施策が問題状況の本質的解決につながるのだろうか。既に一九五八年以来教育課程の編成権は国家が学校・教師からとり上げてしまっているではないか。そのためにそれぞれの地域や子どもの実態に即し、学問的な真理や真実にもとづいて教育の中身や方法(すなわち教育課程)を自由に、自主的に編成することができなくなっているではないか。そうしておいて、学校の管理体制を強め、上からの統制と監視をきびしくすれば、教師は益々自主的な生き生きした教育実践ができなくなるではないか、というような根本的疑問があるのである。/しかし答申 [78年中教審答申: 引用者] はそのような疑問はおよそ眼中にはないかの如く、今日の教員には、教養・人間性・教育的愛情・教育者的使命・指導力等々の面で国民からの批判を受けるような不足の面があるとし、それら資質能力の向上のためにとして、教員養成・採用・研修の各側面での改善策を求めているのである。(右島洋介・白井慎「教員養成政策とその批判」 右島・鈴木慎一編『教師教育 課題と展望』勁草書房、1984、58--59)

資質能力の中身として何が語られているかではなく、誰がそれを語っているかが問題視されている。そのことの意義は軽くはないが、しかし、この批判は、教師の要求と親・地域の要求との予定調和をその代償として差し出してしまっている。「実践的指導力」の中身を論じれば、すなわち行政側の土俵に乗ってしまう、それは断じて避けたい、という(初期)全私教協のジレンマは地域教師教育機構という全面的な対抗システムの構想を促すことになる。

しかしながら、教員養成政策をめぐる政治的対立を措くならば、教師教育に関心を寄せる教育学関係者の教員養成カリキュラム論あるいは教員の資質能力論は、少なくとも、その表現に関しては、政策文書のそれときわめてよく似ている。日本教育学会の課題研究「子ども人口減少期における教員養成及び教育学部問題」報告書のなかで、岡本洋三は次のように述べている。

それ [教員養成の教育: 引用者] は直ちに教職の活動を十分に展開できる実践力を持った「教員」として完成させることを目標とするものではなく、教育実践の技量を経験と学習を通して獲得できるような基礎的な能力をしっかりと形成する「教職準備教育」なのである。/このような考え方は、次第に受け入れられてきている。臨教審は・・・/このような政策側の動向には、現実と制度との著しい矛盾に対するそれなりの認識は認められ、その乖離を埋めようとする意図があることは明らかである。(岡本洋三「教員養成カリキュラム論」 浦野東洋一・羽田貴史編『変動期の教員養成』同時代社、1998、54--55)

したがって、すでに紹介したように日本教師教育学会が今年(2005年)の公開シンポジウムのテーマを「実践的指導力・・・」に設定したのは、テーマ説明のなかでその鍵概念には実は定義がないと記していることも含めて、当然の成り行きであろう。未定義のある用語を重要な鍵として当然視するという逆説を立場のちがいを越えて共有するというのが「実践的指導力」言説の特徴である。

「実践」

「実践的指導力」について否定的に語るのはむずかしい。私見では、この用語の強みは「実践」という言葉によるところが大きい。教育学の世界で「実践」は分析概念として厳密に用いられるとともに、一般的な記述にも多用される。その場合、「実践」は「行為」や「実行」とほぼ同義であるが、後者ほどニュートラルではない。「実践」として記述される「行為」はプラスの価値を帯びるのが通例である(「悪事の実践」とは書かれない)。岩波講座 現代と教育 第3巻 『授業と学習の転換』(1998)の冒頭にページ数にして3ページの「はじめに」が置かれており、そのなかから「実践」をすべて抜き出してみよう。

互いに学び合いつつ、なんらかの共同体の実践に参加する
具体的な授業実践も、学校を「非・学校化」する実践へと変化してくる
具体的な授業実践へ向けての提言をする
あるべき方向を具体的実践と結びつけて大胆に提起している
教育現場の実践で日々苦しんでいる教師たち

「指導力」だけだと「それは何?」という問いを呼ぶ。それに明確に答えると反問を呼ぶ。しかし、「実践的指導力(指導力は実践的である)」はいわば同語反復であり反証不能命題と映る。しかも「実践」はプラスの価値を帯びているので、「実践的指導力(指導力は実践的であるべきだ)」となる。

上の例文にも見られるように、「実践」と相性のいい言葉がある。「具体的」とか「現場」がそうである。これらの言葉が、教員養成教育にたいする批判の武器として動員されていることは周知の通りである(「机上の空理空論」)。「理論」と「実践」を二項対立的に単純化してとらえるのは通俗的ではあるけれども、「非実践的」との非難は根拠のないことではない(自らの教育経験がそのことを実感させる)。かくして、教職教育はいわば教育学的常識と国民的実感の挟み撃ちに遭っているという状況である。現状では、それが教職カリキュラムの肥大化を昂進させており、ゆえに「開放制の危機」を訴える理由はたしかに存在するが、しかし、教職教育に「実践的」であることを求める声までを封殺してしまうとすれば、それは自殺行為であろう。

「力」

「実践的」であるために教職教育は何を為すべきか(為しうるか)を考えるために、迂遠と思われるかもしれないが「実践的指導力」の「力」について論じてみたい。

調べたわけではないが、90年代の終わり頃から本屋の棚で書名に「○○力」を含んだ本を目にすることが急に多くなったような気がする(「地域力」「人間力」「父親力」「恋愛力」)。教育の世界では「教育力」が比較的早く登場しているが、この言葉を最初に目にしたときの違和感は今も消えない。ここで述べたいことは単純なことだ。「恋愛力」を身につければ素晴らしい恋愛ができるか。そんなことはないと誰もが思う。「あなたも必ずできます」という帯の宣伝文句に問題ないとは言えないが、うまくいかなったとしても罪は軽い。では、「実践的指導力」はどうだろう。「実践的指導力」を身につければ素晴らしい教育ができるか。今度は誰もがそうだと答える。できないとなれば、どう言い訳するのか。「実践的指導力が不足しています。研修で身につけましょう。」これが無限に続くプロセスを生成するということは直ちに了解されよう。

ところで、「力」とはどういうものなのだろう。『大辞林』の語釈は次のようになっている。

(1) 人や動物の体内に備わっていて、自ら動いたりほかの物を動かしたりする作用のもととなるもの。具体的には、筋肉の収縮によって現れる。
(2) そのものに本来備わっていて、発揮されることが期待できる働き。また、その程度。効力。

「実践的指導力」が仮に「自らの内に備わっている何ものか」である、すなわち個々の教師がさまざまな程度において有している個人的属性であるとするならば、ある教師が「実践的指導力」を有していると同時に有していないということは起こりえない。しかしながら、学級崩壊の調査報告にはこうした事例が散見される。研発を重ねてきた昨日までの有能教員が今日は学級崩壊の当事者教員というのは、むしろ常態である。そうだとするならば、「実践的指導力」という用語によって指示される何ものかとは「力」ではないのではないかという疑問が浮かんでくる。

なぜこんなことが起こるのかは比較的見易い。教育が、あるいは「実践」が「現場」をもっているからである。識者の言い回しを借りれば、教育は「確率(論)的」(広田照幸『教育には何ができないか』春秋社、2002)であるからである。

「実践的指導力」言説は、教育を本質主義化もしくは自然主義化する傾向をもっている*。しかし、教育の成否が「力」の有無・多少のみによっては決まらないという事実を目の前にしてもなお、依然としてこれに固執するならば、「実践的指導力」の範囲と強度との無限拡大が求められるのは必定である。そんなことは不可能であるし、採るべき道でもなかろう。誤解なきよう付言すると、属人的力量が不要だと言っているわけではないし、その力量は高ければ高いほどよいというのはその通りである。

* ここで「本質主義」とは、有能な教員に共通する固有の本質(実践的指導力という「力」)があるかのように仮構し語る、その語りのふるまいをいい、また「自然主義」とは、個々の子どもにとっての指導の善し悪しは、各々の指導者が個別に具備している「力」に左右され、その「力」は、分析的に解明し取り出したり、植え付けたりすることができるとみなす、その態度をいう。

他方、この事実の確認は、教職と他の専門職(医師や判事や原子力発電所保安係)との間の専門性の質的ちがいを浮かびあがらせる。後者においては、専門的能力と職務遂行の程度とは相関する傾向にある。だが教職はそうはいかない。それは教職という「実践」、教職がもつ「現場」の特徴に由来する。教職に固有の専門性の源泉もここにある。

教職教育における「実践」

個々の講義科目の内容と「実践」との関係については述べない(先ほど「プログラム学習」と「個に応じた指導」との関係に触れた。「教育原理」よりも「教育相談」のほうが「実践的」という把握は短絡的にすぎよう)。

以上述べてきたところから、実際の教育活動の成否が当該活動が遂行される個別的文脈に依存していることの自覚の重要性を強調しておきたい。教職課程においても、個々の受講生が将来教員になるか否かにかかわらず、そこでの教育はこのことの自覚をいかに促すかに意を用いなければならないと考える。講義で語る、実践記録に語らせる、経験させる、経験を再組織し教材化して共有するなどいろいろな手が考えられよう。もちろん、条件が整っているならば受講生に実際に経験させるに如くはなかろう。ただし、その場合には、まず、成否を云々するに足る最低限の内容を作ることができることが前提となる。方法的なるもの(指導力)がそれ自体として自存しているわけではない*。教育実習(教科指導の場合)に即して言うならば、(1)教授内容・教材研究、(2)教授スキル、(3)学習の展開・構想等について予めの準備は不可欠である。

* この点につき小玉重夫(2003)の警告。「・・・子どもといかにしてかかわることができるかや、子どもとどういう関係をつくることができるかということだけが教育実践の価値をはかる基準となっていく。それに対して、何が教えられるかや、子どもにとってそれがどういう意味があるのかということは、それ自体としてあまり問われなくなってくる。そういう教育の内容的なことは抜きにして、子どもといかにうまく関係がとれるかどうかという、教育の方法的なことそれ自体に意味があるという考え方が勢いを得ていく。」

しかしながら、教育実習を他の教職課程科目から隔てているのは、なんといっても(4)状況対応であろう。

もちろん、状況には、教材研究の拡大深化や教授スキルの向上や授業プランの練り直しなどによって対応可能なものも多々あり、「教育実習」担当の教職課程教員の精力の大半がこれに注がれるべきというは疑いを入れない。だが、相対的には、「力」はつねに「不足」しており、経験の蓄積のみによっては対応しきれない状況はつねに潜んでいる(KKD)。これこそが教育の「現場」を「現場」たらしめている特徴にほかならない。

教育実習の場合には指導教員がこの難局をやりくりする手立てを提供してくれるであろう。したがって、この難局とやりくりの算段とを再現することは「実践的指導力」形成のためのまたとない資源を提供してくれると考えられる。また、このようにとらえることが許されるなら、教育実習生の経験は近年注目されている「同僚性」の実質(教師が相互に、具体的に支持援助しあったり、授業について考え方を共有しあったり、共に授業づくりを考え省察しあう関係)とも無縁ではない。学級王国が批判され、職人的教師像(KKD)からの脱却が求められて久しいが、幸か不幸か実習生は未だキングでもマスターでもない。教育実習生をめぐる関係が巧まずして来るべき教師文化(同僚性)のプロトタイプを成しているとみなすこともあながち的はずれではなかろう。