これまでの講義のまとめです。
■心身問題とは何か?
心身問題とは、われわれ人間が「考えをもつ」という側面と「身体をもつ」という側面を、どのような関係で規定することができるかという問題です。それは、心(精神)と身(物質)の関係論として人間存在を考察しようとする立場であり、またそこから生まれるさまざま議論です。
■身体あってこその思考?
この問題を考えるに際して、身体があってこそわれわれは思考することができるのだ、つまり、もしわれわれの身体が活動を停止してしまえば「考える」ことも無くなるという見方が成り立ちます。今日ふつうに広まっている考え方です。たしかにひとりの人間(個体)レベルでは、おそらく、これは当たり前のことでしょう。つまりわれわれ一人ひとりの「考え」というのは、個体としての人間が生きている限り問題になる事柄であって、いちいち検証するまでもなく、死んでしまった人間が「考える」などとは誰も思わないのです。デカルトもそれを否定しません。
しかし「心身問題」のきっかけを作ったこの哲学者は、「身体あってこその精神」とは考えずに、この問題を少し違った角度からとらえていました。それが精神と物質の二元論です。彼は、精神が肉体(物質)とは全く違った原理で成り立っていて、どちらかがどちらかに依存する(どちらか一方が他方の原因となる)のではないという考え方を示しました。かれによれば「心」と「身」の二つは人間という固体の中でそれぞれ「関係しあう」に過ぎないのです(能動・受動関係)。言い換えれば、われわれ一人ひとりの「考え」は、われわれの一人ひとりの「肉体」を前提として生まれるのではなく(肉体を原因としているのではなく)、精神的存在(思惟実体)と物質的存在(延長実体)が人間という存在を介して結ぶ関係において生れる、というのがデカルトの考え方です。また人間を肉体の側から見た場合も同じことが言えます。われわれ一人ひとりの肉体は、われわれの精神を前提として生まれるのではなく(精神を原因としているのではなく)、精神と物質が人間存在を介して関わることによって実現され、かつ意志的な運動を可能にしているのだということになります。
■精神と物質が「関わりを」もたない状態とは?
したがって、この「関わり」が無くなった人間存在はただの「もの=thing」に過ぎません。デカルトにとって「もの」とは「考えない存在」とほとんど同義です。一方、ものとの「関わり」が無くなった精神とは何でしょう? それはただの「思惟=thinking」です。デカルトにとって「思惟」とは「形や位置(延長)をもたない存在」とほとんど同義です。
これは、われわれ現代人にはなかなか理解しにくい思想です。とくに「形や位置をもたない存在」をなぜ存在と呼べるのかという疑問が湧いてくるでしょう。しかし、それは「存在」つまり「ある」ということを感覚的に把握しようとすることから起きる疑問です。もし「存在」あるいは「ある」ということを「目で見る」「触る」「聞く」・・・といった感覚器官のもたらす情報のレベルではなく「考えている」というレベルで問題にしたらどうなるでしょう。
■「考えている」ということそれ自体を知るには理性的な能力が必要である
われわれは、確かに生きている間だけしか考えられない(というより「考え」を経験できない)でしょう。死んでしまったら思考も経験もなにもないでしょう(中には死後の世界なんて想像する人がいるかも知れませんが、今はそういうことを問題にしているのではありません)。だから肉体を離れた "思考" は一体どこをさまよっているのか?・・・という風に考えるても、議論としてはかなり荒唐無稽なものになってしまいます。ここでは、あくまでも生きているという時間・空間的な条件の元で、日常われわれが「考えている」といっているものについて問題にしているのです。
この「考えている」ですが、それが何を原因として生じるかに関わりなく、われわれは「考えている」という事実そのものを決して感覚のレベルで(つまり五感を通して)とらえることができません。思考は感覚器官の対象となるようなものではなく、われわれが自らの言語能力を介して把握する対象です。たしかに「脳で把握する」という意見があるかも知れませんが、脳はあくまでも一つの器官に過ぎません。この「脳」で起こっていると仮定される作用を、脳内の物質とそのメカニズムに還元する見方が成り立たないわけではありませんが、たとえそうだとしても「考えている」という事実そのものは、感覚(senses)以外の能力
を通してはじめて知ることができるものです。デカルトを始め近代の哲学者たちはこの能力のことを「理性(reason)」と呼びました。デカルトが「形や位置をもたない存在」をなぜ存在と呼べるのかというと、それ(考えているという事実)が感覚の対象ではなく理性の対象であり、その意味では感覚がとらえているもの以上に確実に存在する(つまり「ある」)と言えるものだ、と理解したからなのです。
■理性の対象となっている事柄=思考は、目に見えないばかりか時間・空間的制約をもたない。それは、感覚器官がとらえる対象に合致したりしなかったりする―そういう性質の存在である
今みなさんの前に紙と鉛筆があったとします。それを「もの(thing)」としておきます。あなたは鉛筆をもって紙に何かを書きます。書かれた文字もそれ自体は鉛筆から生まれた「もの」(鉛の粉)です。
一方、みなさんが家へ帰ってからこの紙と鉛筆さらにはそこにかかれた文字・・などのことを思いだすとしましょう。この場合、みなさんの前にはさっきまで目の前にあった「もの」はありません。しかし、あなたは紙や鉛筆や文字に関する「考え」をもっています。これを記憶と呼ぶこともできます。記憶についてはここで詳しく論じる余裕がありませんが、「記憶」と呼ぶか「考え」と呼ぶかはおいておいて、いずれにせよ、ここで問題になる "紙" "鉛筆" "文字" は「もの(thing)」ではありません。それは「もの」に合致した「観念(idea)」です。この「観念」それ自体は時間的・空間的制約をもちません。しかし、やはりこれも「ある」ということができます。デカルトが「形や位置をもたない」と言っている「存在」は、われわれが具体的に経験するレベルで理解するなら、この観念(idea)のことです。
もの(thing)と観念(idea)は一致する場合もあるし、しない場合もあります。近代哲学の枠組みでは、この二つが一致する場合を「正しい=現実的(real)」とするのです。
■デカルトの二元論は、人間が生きている世界を理性の力で解読しようとする近代科学の基本的枠組みを提示した。
この講義は、近代哲学の父とも言われるルネ・デカルト晩年の著作『情念論』をとりあげ、心身問題とは何かを考えてきました。デカルトといえば「われ思うゆえにわれ在り」で有名な哲学者なのですが、あえてこのテーゼを取り上げずに「心身問題」を取り上げたのは、この問題において、デカルトの二元論的哲学がよりラディカルに表現されていると考えたからです。
デカルトの主張した二元論は確かにさまざまな困難も抱えていますが、一方では、れわれれ人間が直面する世界の姿を「精神」と「物質」という二つの側面でとらえるという手法に道を開きました。それは、1)自然(物質)は人間的理性(精神)の力をもって解読することができ、2)理性の主張と客観的物質世界が一致するときに、その解読の正しさは保証され、3)さらに人間的理性によって解読された自然は種々の経験(実験)によって確かめることができる・・といった近代科学の基本的方法論の確立に大きく貢献しました。
【参考資料】
参考のために2003年度の講義で皆さんから出された質問とその答えをいくつか紹介します。
[運動について]
Q:たとえば水素などの原子がくっつこうとして動くのって魂があって動くんじゃないですか?
Q:デカルトは人間が動く要因を心臓に蓄えられた熱と血流と考えるが、では心臓を動かすのは何なのか?
Q:血液は自らの意志で流れているのか?
*さて、どうでしょうか。講義でも少しふれましたが、運動の究極原因を何と考えるかは、現にわれわれが体験しているような運動の姿(もっとも水素と酸素の結合するところを見ているわけではありませんが)を解明する(法則を発見する)という問題とは別問題です(あるいは別問題として扱った方がわかりやすい)。デカルト自身は、究極原因を「神=宇宙の創造者」と考えています。神が宇宙を作ったときに「運動」もつくったということです。ちなみにこの「神によってつくられた運動は増えもしないし減りもしない」というのが「運動量保存の法則」です。じゃあ「神」って何? ということになると議論がいきなり難しくなります。運動の法則そのものの話よりも複雑になってしまうわけです。西洋哲学の伝統では、この神に関わる抽象的部分の学問を「形而上学=メタフィジック metaphysic」といって、独立した部分として扱います。デカルトも
metaphysic の上に physic つまり運動原理に関する学問がのっかっているという説明をしています。
ただここで注意しなくてはならないのは「魂 ame」の方が神に近くて「物体 corps」の方が遠いということではないということです。デカルトは、簡単に言ってしまえば、神は宇宙に「物」(運動)と「魂」(思考)という二つの根本的な存在(実体)を創ったと考えます。だから「魂」は思考の原理になり得ても、運動の原理にはなり得ないと言いたいのです。
Q:運動しているものと運動させられているものの二つは、同じ運動なのか?
*デカルトは最初(宇宙の創造時)に運動が創られたと考える訳ですから、「している」ものと「させられている」ものの違いはあくまでも相対的なものでしかありません。「止まっている」ように見える時は運動力が「釣り合っている」と考えるわけです。つまり物体はすべて運動していると考えます。
[自然について]
Q:私は人間は自然でないと思います。人間は子供の作り方を知った上で子供を作るからです。
*「子供の作り方」は他の動物も知っているように思えます。私見では、この点で人間が「自然でない」のは「子供の作り方を知った上で子供を作るから」と言うよりもむしろ、子供を作る(種を保存する)という目的がなくてもセックスする点にあると思います。
[心身問題について]
Q:機械の身体を人間と言えるのは魂があるからであり、その魂がなくなった人間は「ただの機械=人ではない=人としては死んでいる」という構図ができあがるのではないだろうか?
Q:デカルトが言う「自然の一部としての人間」というのは、精神に関係なく物体として存在していると言うことですよね。
*はい私はそう思います。ただ人間が人間としてあるためには「物体」つまり身体だけあってもだめで、精神が何らかの形でこの身体に関与していなければなりません。この関与の仕方を問題にするのが「心身問題
Mind-Body problem」です。
Q:精神的なことが原因で身体が病気になることがあるので、そのあたりはどのように考えていくべきなのか?
Q:魂と身体の結びつきをデカルトはどのように考えたのか?
*この点は私もよく考えます。いろいろに考えられるしあなた自身も自由に考えてみるべきだと思います。デカルトに限っていえば「動物精気」の働きが精神と肉体の橋渡しのような役割をもっていると考えました。たとえば夢で火事に遭ってしまい、あわててベッドから飛び起きるとかいった場合も「夢」という精神的領域での出来事が肉体に対して何らかの働きかけをすると考えるのですが、その時精神的な情報を肉体の各器官に伝達すると考えられた物質が「動物精気
esprit animaux」です。
[精神あるいは魂について]
Q:魂と精神は全く同じものだと考えて良いのか?
*デカルトの哲学に関していえば同じだと考えて良いと思います。これは単に日本語の訳語の問題です。フランス語原文では「魂」「精神」いずれも
ame (アームと読みます)です。肉体/身体/物体 に関しても事情は同じで原文では corps (コールと読みます)です。
Q:人の思考、考え、経験は人間のどの部分の器官に存在するのですか?
Q:魂は心臓と脳のどちらに宿るのか?
*デカルトは脳の特殊な器官(松ぼっくりににているので"松果腺"とよばれた)にあると考えていましたが今日の医学では根拠がないとされています。
Q:デカルトは「精神」「魂」を否定しているのですか?
*否定しません。
Q:デカルトは「魂」の存在を否定しないが、否定しないのはどのような点からか?
*人間は身体運動だけでなく思考も持っているという点からです。思考の原理とされたのが魂/精神(ame)です。
Q: A.I.は人間が作り出した魂ということになるのだろうか?
*秋学期に予定している「心身問題の現代的な展開:攻殻機動隊」で詳しく考えようと思いますが、『攻殻機動隊』の英語題名は GOHST
in the SHELL (殻の中のゴースト)となっています。あくまでも私見ですが、この漫画の著者は「魂」=「ゴースト」と考えているようです。つまりコンピュータやサイボーグといった「殻」のなかに「魂」があるといったイメージです。そうなるとデカルトのイメージした人間とあまり変わりませんね。「知能をもった自動機械」が人間だとしたら、基本的にはあなたの考えは正しいと思います。違いは、デカルトが「思考」の原理=「魂」は神によって創造されたものだと考えたのにたいして、もし人間が人工的に知能を作り出せた場合には、その原理は「神によって与えられた」ものとしてではなく「人間自身によって」再生できるという点です。
Q:身体の中では熱による動きと精神による働きが共存していて、比率的に入れ替わっているのでは?と思うのですが・・・ 大きな力などは脳のリミッターがはずれることでふつうでは出ない力を出すように思います、そのリミッターをはずす要因はなんですか?
*確かに人間は思わぬ力を発揮できるようです。実際にどういうメカニズムになっているのかよくわかりませんが、デカルト的な説明の延長で考えれば、あなたのいう「リミッター」の働きをしているのはデカルトが「扉」と呼んでいる脳の器官の働きということになるのではないでしょうか?
(『情念論』の抜粋、第1部16)を読んでください。
Q:身体と魂を別のもと考えること自体が間違っているのではないでしょうか?
*これは当然出てくる主張です。あなただけではなくデカルトの同時代の哲学者にも、またそれ以降の哲学者にもそう考えた(る)人たちがいます。つまり二元論を否定して物と精神の一元論を主張する立場です。ただ、逆にもし「身体と魂は同じものだ」と言ったとしたら、それはどんなことを指しているのでしょうか? この講義の最初にも話しましたが、多分その場合には「身体」は必ず「生きている」のだと主張すると同時に、「生きている」という現実を他の運動(ただ動いているだけ)という現実と区別する立場が必要になると思います。さらに「精神」ということを「生きている」ということとほとんど同じ意味に使わないとうまく説明できなくなるような気がします。もちろんデカルトだけが正しいわけではありません。自分に納得がいくような説明を求めるというのが哲学だと思います。考えてみてください。
Q:植物人間は「死んだ」ということになるのか?
*デカルト的にいえば「ならない」と思います。なぜなら「植物人間」の場合は身体運動は制限されながらも続いているからです。しかも「熱と運動を失ってはじめて魂が去る」(情念論第1部5)という主張に忠実に考えれば、植物人間にも魂/精神有り、ということになりますね・・・ この問題には、何をもって人間を「死んだ」とするかによって「YES」とも「NO」とも答えられます。たとえば脳死が「死」であれば
YES, そうでなければ NO ですね。またいわゆる「精神の不滅」(不滅と言うと大げさですが、要するに非時間性="三角形の内角の和は二直角である"という精神的ことがら[命題]は時間に影響されない)という問題もあります。デカルトの言う「魂/精神」は、物体的な機能の停止である「死」とは原理の点で根本的に違うものです。こちら(魂/精神)の生死を論じること自体がナンセンスだということにもなります。魂/精神はあくまで、時間と空間に支配された身体(人間の一生)と「関連」をもつのであって、それ自体が「生まれる」とか「死ぬ」ということにはならない、というのがデカルトの考え方です。
[意識について]
Q:アメリカのチンパンジーは人から手話を教えてもらい、人と手話で会話ができるようになり、自分の意志や子供のことを伝えることができた。これは[チンパンジーにも]意識があるということではないか?
Q:人間の意識と動物の意識はどこが違うのか?
Q:デカルトが、猫に意識がないといったのはどういう点からですか?
*意識というのは定義の難しい言葉です。外界のものを感じ取る力、いわゆる五感(視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚)といった知覚作用(これは動物にもあるでしょう)に対して、外界のものや心の中の動きを反省的に知る力、つまりそれらをただ感じるだけではなく精神的なものとして受け止める作用を「意識」という場合が多いようです。これが人間以外の動物にもあるか?という問題ですが、結論から言ってしまえば「精神的なものとして受け止める」ということをどのレベルでとらえるかによります。人間の場合、このような意識作用の多くは「言語」によって支えられています。人間と同じように動物が「言語」をもっていれば、基本的には、動物にも「意識」があると言えないこともなさそうです。つまり彼らが知覚的体験を言語化して、出会う事柄ひとつひとつを(たとえば敵と出会う、食べ物に出会う、人間の行動に出会う・・・などなど)に対してそれが何であるかを"反省的"に知るということです。
しかし私見では、動物に言語があると仮定しても、それは人間の言語活動とはある点で根本的に違うものになるのではないかと思います。たとえば、外界からの刺激や、身体的な刺激に対して「反応」する結果なんらかの行動をとる(たとえば「痛い!」とか「キャン!」という"声帯音"を発する)という作用を「言語活動」ととらえるなら人間も動物も変わらないように見えます。しかし刺激反応ではなく、外界や身体内のさまざまな出来事に対して、実際にその刺激がないのに「言語でとらえられた現実」を分類したり操作したりする(難しく言うと「刺激反応」に対して「記号操作」)ということになると、どうしても人間と同じレベルで他の動物たちの活動をとらえられないのではないかと思います。
これはあくまでも私自身の見方です。学者の中には、動物の意識というものも「記号操作」であるとする人たちがいます。デカルトは動物に「刺激反応」以外の作用を認めませんでした。犬がほえたり、喜んだりするのは刺激に対する自動的な反応の結果で、人間が大きい音を聞いてびくっとするのと同じ身体レベルの作用にすぎないという見方です。したがって、もし人間と言葉を交わすように見える動物がいたとしても、それはあくまでも人の声に対する身体的反応の結果であって、精神的=反省的活動(それはまた創造的活動とも言われますが)とは同一視できないという立場です。
Q:母親のおなかの中にいる赤ちゃんに意識はあるか?
*微妙なところです。これも意識をどのレベルでとらえるかにかかっています。刺激反応も意識の一つだと考えれば、胎児であろうと、たまごの中の雛であろうと「おなかを蹴ったり」「殻をつついたり」といった目的行動をするようにできていますから、答えは
YES でしょう。一方そのような行動原理をあくまでも自動的な身体運動だととらえれば NO です。
ただし「意識」ではなく「魂/精神」に関しては話が別です。デカルトは「人間は生まれながらに思考能力=精神をもつ」と考えます。こういう能力を「生得観念」と言います。簡単に言ってしまえば、人間は赤ん坊でも、もともとが「精神」(潜在的ですが)と「身体」の合わさった存在で、大人になるにつれて、この潜在能力が顕在化してくると意識活動を行うようになるということです。
[思考について]
Q:人間が睡眠している間も思考は魂(精神)から生じているのですか?
*はい、デカルトはそう考えました。典型的なのが「夢」ないしは夢における思考です。また生まれつき目の見えない人でも、たとえば「同じ大きさの直角二等辺三角形の長い方の辺をつなぎあわせると正方形になる」ということが明確にイメージできるのも、思考が感覚からではなく精神から生じるということの説明になるでしょう。デカルトにとって睡眠は、あくまで身体の出来事であって精神の出来事ではないということです。
[実体について]
Q:夢に出てくる物体も実際にあるものと考えた、というのはどういうことですか?
Q:形と位置をもたないものも「実体」と言えるというのが分かりません。
*そうですね。たしかに、ふつうの使われ方からいうと、「形」と「位置」をもたなければ「実体がない」ということになります。これも日本語の訳語の問題なのですが、実体という哲学用語は、もともとは
substance といって「根底にあるもの」(sub は"下に" stance は"立つ"とか"ある" という意味です)を指す言葉なのです。デカルトが物体、すなわち「形」と「位置」をもつものの"根底にある" と考えたのが「延長実体」(これも変な訳語ですが、もともとは「広がっているもの」つまり「形と位置をもつもの」の意です)、それに対して精神活動の基本である「考える」というモノ(日本語では "こと" といった方がよいのですが、これも西洋の言葉では区別がないのです)の「根底にある」と考えたのが「思惟実体」(もともとは「考えるモノ」の意です)なのです。
だから「考えるコト」と「(時空に)広がっているモノ」という性質が違う2つの存在にかんしてデカルトはこの用語を使っていると考えれば少しわかりやすくなるかもしれません。人間の例で言うと「考えること」も「身体という物体」も両方とも「ある」(存在)という点では同じで、もし「ある」のだったら、その「根底にあるもの」を区別して考えよう、ということで彼は自分の哲学を組み立てました。
Q:実体の定義「それが存在するためには他の何かを必要としない」というところがわかりません。
*上にも書きましたが、実体というのは「根底にあるもの」の意味です。古代ギリシャの哲学や西洋の哲学には、われわれが普段接している「モノ」や「コト」は、この根底にあるものが様々な形をとって顕在化する(それを「実体」に対して「属性」と言います)結果だと考える伝統があります。性質や量の違いを包括できる、より抽象的な存在を探し求める傾向です。良い例が見つかりませんが、ウインドウズであろうとマッキントッシュであろうとコンピュータはコンピュータ(正確には
OS と言うべきでしょうが)、コンピュータであろうが自動販売機であろうが、機械は機械、機械であろうが置物であろうがものはもの・・・・みたいにどんどん抽象化していくわけです。そうすると最後には「もの」と「こと」という二つの根本的存在に行き着くわけです。
この行き着く先のものを「実体」と呼びます。その意味では「他の何かを必要としない」というのは「それ以上抽象化できない」と言う意味にとっても構いません。つまり「実体」はすべての属性を潜在的にもっているので、それ自身で存在できるけれども、個々の具体的な「もの」(たとえば「リンゴ」)や「こと」(たとえば「愛」)はどちらかの実体の属性(実体に属しているという意味)なので、この実体を「必要としている」と考えるわけです。
ちなみにデカルト的な二元論ではなく、「もの」も「こと」もすべては一つの実体(一者)に属するという考えも古くからあります。
また、こういう抽象的な思考を避けて、実体というものをそれ自体を否定する見方もあり、現代ではとくにその傾向が強くなってきています。そもそも「根底にあるもの」なんて無い! という考えですね。
[その他]
Q:デカルトによる「神の存在証明」がすごく気になります。
*これは大きな問題ですのでここでコメントできません。デカルトの『省察』という著作を読んでみてください。
Q:哲学を学ぶためになぜ数学や物理学が必要なのですか?
*「必ず」というわけではありません。単に近代ヨーロッパの哲学者の多くが数学者であり物理学者であるということです。
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