<!--This file created 02.12.18 9:04 PM by Claris Home Page version 2.0J--><HTML><HEAD>   <TITLE>iwasa34j</TITLE>   <META NAME=GENERATOR CONTENT="Claris Home Page 2.0J">   <META HTTP-EQUIV="Content-Type" CONTENT="text/html;CHARSET=x-sjis">   <X-SAS-WINDOW TOP=43 BOTTOM=860 LEFT=4 RIGHT=534></HEAD><BODY BGCOLOR="#FFFFFF"><P><CENTER><B><FONT SIZE="+1"COLOR="#D6D600">「フリードル先生とテレジンの子どもたち」</FONT></B></CENTER></P><P><CENTER><B><FONT SIZE="+1"COLOR="#D6D600">描くことが生きること</FONT></B></CENTER></P><P ALIGN=RIGHT><FONT SIZE="+1">3年　岩佐　直子</FONT></P><P>　2002年、10月1日〜20日の間、海外文化交流特別展「フリードル先生とテレジンの子どもたち〜描くことが生きること」が芸術の森美術館で開催された。この展示ではフリードル・ディッカー・ブランデイズの人生を彼女の芸術作品を通し紹介した。ファシズムを恐れることなく芸術・教育に一生を捧げた人生だった。</P><P>　フリードルは、1898年のオーストリア、ウィーンのユダヤ人一家に生まれた。母親は、彼女が4歳になる前に亡くなった。幼き頃から芸術に興味を持っていた彼女は、ヨハネス・イッテンから美術を学び、その後、ドイツの造形美術学校であるバウハウスに入学した。卒業後、友人との仕事を経て、幼稚園の先生たちに美術を教え始める。これが彼女にとっての最初の教師としての経歴となった。</P><P>　当時はファシズムが台頭し始めた時代であった。フリードルは仲間たちとよく政治問題について討論するようになっていく。そのなかで、ユダヤ人として亡命するかファシズムと闘うかという問題に突き当たった。彼女にとって逃亡することは恥ずべきことだった。彼女が選んだのは闘う道であった。ファシズムに対抗する唯一の選択肢として彼女が選んだのは、共産主義に身を投じることだった。ある時、友人の脱出の手助けに荷担して彼女は逮捕されてしまう。しかし、牢獄に入れられても彼女は恐怖など感じなかった。屈辱的な尋問にも屈しなかった。友人の証言によって、釈放されたフリードルはチェコスロバキアのプラハへ出発した。1936年、フリードルはいとこのパヴェル・ブランデイズと結婚するが、間もなく流産してしまっている。</P><P>　ユダヤ人への迫害は日に日に酷くなっていき、次々と移転を強要された。1942年、そしてたどり着いたのがテレジンの強制収容所だった。テレジンはアウシュヴィッツに送られる中継地点で、「地獄の控え室」と呼ばれていた。収容者は教育を受けたものが大半だった。外見的には文化的な暮らしを送らせることによって、ナチスはユダヤ人絶滅計画を隠すことに利用したのだ。</P><P>　フリードルは10〜16歳までの女の子と教師と3階建ての建物で暮らした。彼女は何百人もの子供たちに絵を教えていった。子供たちの傷ついた心を癒していくことが彼女の教師としての目標となった。彼らの中には目の前で父親が銃殺されたというショックを抱えた子達さえいた。病気で隔離された子もいた。フリードルは誰一人分け隔てなく教えていった。1943年、地下室で子供たちの絵の展覧会を開いた。彼女は子供たちに好きなものを描かせた。彼らの中には食糧配給や移送や収容所の室内の様子を描く子もいた。</P><P>　それと正反対に教師であり画家でもあったフリードル自身は決して自分の暮らす現実世界の移送や室内の様子死体の山を描かなかった。風景、花、人々を描き続けた。闇の部分を描いていくことが彼女の画家としての使命ではなかったからだ。平和なものを願う心を表現していった。</P><P>　子供たちへのフリードルの影響は絶大であった。「フリードルはどうやって絵を描き始めるのか、物の見方や空間の考え方について教えてくれた」と教え子の一人は述懐している。また、フリードルは「絵の授業は子供たちを芸術家にするものではない。その課題は想像力を目覚めさせ、子供たちの観察力を高めることである」と言っている。</P><P>　1944年、収容所で大工として働いていた夫のパヴェルは新しい収容所の工事現場へと移送されることになった。フリードルは同行を求めたが却下された。彼女は次の移送で送られる希望者リストに自分を乗せるよう主張した。1944年、10月6日、テレジンを出発した貨物列車の中に彼女はいた。彼女の教え子も乗っていた。そして3日後の10月9日、列車で運ばれた人々はアウシュヴィッツで殺された。</P><P>　この展示はホロコーストの悲惨さを再び私たちに教えた。ユダヤ人であるフリードルがその時代や環境において信念を貫き生きていくことは死をも覚悟することだったのだ。</P><P>　そして、悲しいことにユダヤ人の悲劇はまだ続いているのだ。現在、イスラエルとパレスチナの争いがますます激化している。イスラエル軍のパレスチナへの攻撃は多くの人の命を奪っている。そして、パレスチナ人による自爆テロがそれに続いている。悪循環としか言いようのないこの愚かな闘いは一刻も早い終結を迎えなければならない。平和ほど尊いものはないはずだ。今、フリードルが求めた平和な世界を願わずにはいられない。</P><P><CENTER><HR><B><FONTSIZE="+1"><A HREF="../34english/34topics.html">Topics</A></FONT><FONTSIZE="+1"><BR></FONT><FONT SIZE="+1"><A HREF="../index.html">Index</A></FONT><FONTSIZE="+1"><BR></FONT></B></CENTER></P><P>　</P><P>　</P></BODY></HTML>