海底で泡の言葉が生まれた時刻に

熊谷ユリヤ
わたしが誰なのかを尋ねようとは思わない
わたしが誰を探しているのか
誰がわたしを探しているのかを思い出したいだけ

海の底で泡の言葉が生まれた時刻に約束が交された

大気に鏤められた言葉から無数のわたしが創られ
大宇宙はわたしの中の幽かな宇宙を揺らして
ことだまを送り込んだ

秘密を守ることが苦手だった最初のわたしは
大部分の記憶を消されているらしい

遥かな約束のかけらがくちびるを横切れば
静かに血が流れる

生まれるときに覚えていた言葉が一つだけあったのに
この国の言葉を覚えていくにつれて忘れてしまった

次の命になるときにもう一度思い出すのかもしれない

時間と空間を超えた約束は白い海辺の鳥蒼ざめた樹海の鳥
黒い都会の鳥になってわたしの奥に閉じ込められた

解き放たれる朝には動かなくなった鳥篭を抜けだし
乾いていく翼で飛び立って再び言霊になる

心の奥の樹海では北向きに流れるじかんも
現実を装った都会ではあらゆる方向から伸びて絡み合う

そこは一日限りの約束が 張り巡らされた3次元空間

かつての海はペット・ボトルに詰めたミネラルウォーター

わたしが産みつけた言葉をコンピューターに閉じ込めて
次の世代のわたしを飼い慣らすシュミレーション・ゲームは
うわ言と叫びでストーリーを展開する

スクリーンが映し出すのは
幾人か前のわたしが生け贄として吊るされている宇宙風景

乾くことのない傷口を晒したまま都会は
戦争と大地震のたびに幾度も死んでいくども生まれ変わる

異様な迄の静けさのなかでもう一度死を体験したくなって
わたしは黒鍵のエチュードを弾くようにキーボードを叩く

ゼリー状に溶けた網膜のわたしには
文明から原始までが数秒間の物語りになって送り込まれる

引力から逃れた瞬間
無数のわたしが数知れぬ死と再生を一気に体験する

突然 風景が停止する

マルティメディア・システムから声が湧いて出る

(帰りたい)
(たとえ海の底へ戻ることはできないとしても
せめて波の音が見える時間帯まで辿りつきたい)

北の樹海は儀式の庭
針葉樹や多年草の一人ひとりに新たな名前をつけながら
迷い歩くわたしのきつく閉じた瞼には紅い海が広がり
遠い影が古代文字の姿で浮かびあがる

水没させられた樹海の迷路の底で
わたしの指が習った覚えのない砂の文字を綴り始める
くちびるが異国の言葉の形に動き始める

黙示録にさえ記されなかった約束が蘇るのかもしれない

それでもわたしが誰なのかを尋ねようとは思わない

わたしが誰を探しているのか
誰がわたしを探しているのかを思い出したいだけ

海の底で交わされた最初の約束は
他人の姿を借りたわたしの奥から飛び立った