川端 香男里著 『ロシア 民族とこころ』

講談社学術文庫 (1998)


第6章 「風」 東西南北の意識

 

1.(3年) ===428H (未提出)

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2.(3年) ===330C

 ロシアは北の国である。北海道の人が北国の人間であるということにこだわり続けてきたのと同じように、ロシア人もそのことにこだわり続けてきたように思われる。ロシアで出版されたものを見ると、「北の、北方の」という言葉をよくみかける。北の国であるということを自ら意識することは、辺境の国であることを自ら示しているのだが、それは、自らが西欧諸国に代わる中心でありたいという強い思いをも表わしている。これはロシアの歴史の中にみることができる。例えば、18世紀のロシアは女帝の時代であったが、その時代の一流の詩人たちは、女帝のもとで栄えたロシアを詩に書き、セーヌ河やナイル河が生み出す文化は、北方のネヴァ河が生み出す文化の豊かさの前に恥じ入るとしている。女帝をたたえるのと同時に、ネヴァ河の生み出す文化の豊かさを示すことで、自らが中心であるということも示している。
 東風西風南風北風という言葉は、単語として多くの言語に存在する。しかしロシア語には方位性をもつ風の表現はほとんどない。このことは、古代ロシア人が森の中に住んでいたことに関係があると思われる。森林は一方向に吹く風をさえぎるからである。またステップ化した草原地帯ではつむじ風が吹いている。無方向性の風や、吹雪を表現するロシア語は多い。気まぐれなロシアの風(無方向性の風)は、ロシア人の願望する自由と同じで、アナーキーである。
 ロシア人は「西」が中心であることはわかっていた。様々なものが西からやって来て、ロシアに多大な影響をおよぼしていたからだ。西側のものなくして、ロシアの発展はなかったのであるが、ロシアは自らが中心でなければならなかった。ゴルバチョフのペレストロイカは、ベルリンの壁を崩壊へと導いた。これによって西のものがロシアの社会に多大な影響をおよぼしている。今はまだそれがロシアの社会にとってプラスかマイナスかは分からない。 [目次に戻る]


第7章 都市の成り立ち

 

(3年) ===331B

 都会は田舎と対立するものと考えられ、人の生活様式を二分する枠組みでもある。都会と田舎、都市と農村という対立概念は、文明と自然、あるいは文明と文化という対立概念に通ずるものがある。ソ連の農村派といわれる人々も、都市は農村の海に浮かぶ島のような存在で、ロシアの救いは村にあると考える。ピョートル大帝登場以前のロシアにおいては、都市はいずれも自然的な発展をとげて、時代ととも成長していった。
 ところが、ペテルブルグはまったく何もない、猛獣しか住まない沼地に西欧化・近代化という戦略に基づいてひとりの皇帝の意志によって作り上げられた。ピョートル大帝は、スウェーデン王に戦いをいどみ、この戦争の中でネヴァ河口に軍事拠点としてペトロパーヴロフスク要塞の建設をはじめた。これがペテルブルグの起源である。
 ピョートル大帝は1712年ペテルブルグを首都と定めたが、その後も皇帝はモスクワで即位するという伝統を守っていた。公的な書類でもペテルブルグ、モスクワの両市は両首都とよばれていた。モスクワは歴史的に由緒あるクレムリンや数多くの教会によって、母なるモスクワとしてロシア人の心をとらえていた。これに対してペテルブルグは「ヨーロッパに開かれた窓」という名でよばれ、国際的で、しゃれていて如才なく現代的であった。
 しかしながらレニングラードは、10世紀以来のロシアの文化的黄金時代の伝統を力強く保持しているだけでなく、産業の面でもモスクワに次ぐ大都市である。帝政時代には比すべくもないが、依然として第1級の重要な位置を占めていることは、ソ連時代でも変わらなかった。港町であり、国境の都市でもあるレニングラードは、全世界に通用する普遍的な文化の香りを残している。 [目次に戻る]


第8章 農村と農民

 

(3年) ===333H

 著者は、ロシアにおける農民は、いつの時代においても国の中心であり、ロシアは農村、農民に基づいていると見解しているようである。
 それはナロードという言葉が、民衆、国民という意味以上に、農民という意味を第一としていたことにも表われている。またピョートル大帝以来、農奴制がロシア政治を支え、近代化を推し進めてきた。農奴制は、それまで移動の自由があった農民たちを奴隷のようにあつかい、移動の自由をうばったのである。農奴制とはある意味で、農民の生産力を重んじ、農民を最も重要な存在と考えた結果生まれたのかもしれない。
 また著者は、農民は最も美しいものと見ているようにも受け取れる。
 1861年の農奴解放以前、多くの文学作家たちが農民たちの怒りの声を示し、その解放を訴えている。その主役である農民は、「高貴な野蛮人」として、そしてルソーのいう、自然そのものとして作品中に登場する。そして作品の多くは、荒廃した農村を嘆いている。
 例えばトルストイやチェーホフは、農村や農民を描かせたなら、他の作家をよせつけないほどの才能をもっていた。また農奴解放後、19世紀からは農民出身の作家が出始める。農村派とよばれる彼らは、農民の立場から農村の問題を取りあげ、農村の中で生き続けていたロシアの国の基盤となっているその考えが失われてきていることを嘆いた。
 農民が最も美しいと考えたのは、この著者というよりは、これらの作家たちであるようだ。そして作家たちは、農民が自然そのものであり、ロシア文化を創り上げたにない手であると信じていたのである。
 そして著者は最後に、ロシアを創り上げた農民、最も美しい農民を育て、農村を復興させなければならないと書いている。それこそが今のロシア再生につながる力になるのだと。 [目次に戻る]


第9章 美について

 

(3年) ===334F

 ピョートル一世が登場する前、ロシアには宗教的、教訓的な文化が強く根づいていた。聖職者や修道士などの教会関係者が、芸術面文化面で多く活躍していたからだ。しかし同時に、世俗的で芸術的にも質の高い口承文学や民衆文学が存在していた。神話や民話の中には猛獣や怪獣、たたかう動物を主題としているものが多い。これは遊牧民であるスキタイやサルマティアの支配を受け、その影響を受けたものと考えられる。
 キリスト教文化と土着の文化が混合され、しだいに独自の文化を形成していく。例えば建築。木の文化圏に属していたスラヴ人たちは、釘を使わず、さまざまな形態の貴族邸宅や寺院を建設した。丸太を組み合わせる簡潔な原型に、ビザンティンの石造り寺院建築、ギリシャ正教の典礼の華美が反映された。ポクロフスキィ寺院は、その典型である。やがてポーランドがモスクワを占領し、ポーランド文化の影響の強いウクライナがロシアに合併されると、ロシアの技法、西方およびウクライナの技法が結びつき、キジ島の木造教会を代表とする「ナルィシキン・バロック」様式があみだされた。
 ピョートル一世の登場後、西欧化、個人化される中、聖像画と呼ばれるイコンは消えつつあった。イコンは本来信仰の対象で、芸術作品ではないからだ。民衆版画のルボークも、粗野で非合理なものと考えられた。19世紀末ごろまでに衰退していったこれら民衆文化が再興されだしたのは、ロシア民芸運動がきっかけだった。その後、ナターリヤ・ゴンチャローヴァをはじめ、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちにより、ロシアのイコンやルボークという農民芸術、民衆の精神こそ、堕落した現代文明を救うものとしてイコンやルボークは復活した。未来芸術の指針としてのこれらの復活は、ロシア人の心の根底にキリスト教文化があり、土着の文化があるということを示しているのではないだろうか。

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第10章 近代の芸術

 

(3年) ===401F

 ロシアの文化史においてのスラブ主義者と西欧主義者の対立は、「ロシア独自の道と、近代化のための、西欧と同じ発展の道のどちらをとるべきか」という、ロシア史上の根本的な問題を示していて、今日でも論じられている。
 だが、ピョートル大帝は、ロシア的な古いものを不用とし、西欧的なものを次々と取り入れた。そしてピョートル大帝による18世紀ロシアの大変革は、「上から」与えられるという文化の強制により行なわれた。
 ピョートルは文化芸術より、有用な技術に興味をもち導入をはかったが、西欧の波は技術だけでなく、ロシア文化芸術全域に及んだ。音楽においては、たくさんの音楽家が西欧から訪れ、ロシア人音楽家の指導にあたり、絵画においては、ロシアは伝統的なイコン画法から、西欧的な画法へと転換した。そのようにして、18世紀ロシアは、文化の基礎となる技術を西欧から習得するという「学習の時代」に入った。
 その「学習の時代」の成果は、19世紀、プーシキンが生まれ、トルストイが死ぬまでの百年間、「黄金の時代」となって表われた。この時代にプーシキンらは、西欧の芸術の技術手段を用いながらも、ロシア的といえる独自の傑作を生み出した。
 ここで重要なことは、黄金時代が「ロシアが西欧に学んだ技術を用い、その中からロシア独自の個性を見出し、ロシア的な傑作を作り上げた」というスラヴ、西欧二つの文化の和解の上に成り立っていたということだ。それは18世紀における外来の音楽の波の後、18世紀後半からはロシア民謡を取り入れるロシア人音楽家が現われるなど、民衆文化への関心が高まったことにも見受けられる。
 このことからわかるように、偉大なロシア文化が、今後、より大きく開花するために必要なのは、スラブ派、西欧派のより高次の和解、統一なのである。 [目次に戻る]