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川端　香男里著　『ロシア　民族とこころ』

講談社学術文庫　（1998）

第11章　文学の「金」の時代

（３年）　===402D

　ロシア詩が最も輝いたのは、１９世紀の、プーシキンを中心に彼らが活躍した黄金時代と呼ばれる時代である。国民詩人と称されるプーシキンは、社会的に制約されない民衆語を自分の創作の中に自由に取り入れ為に、ロシア教会スラヴ語を重視した。彼は、国民詩人であるばかりでなく、ロシア語をより解放した、ロシア近代文章語の創始者でもあった。プーシキンのような偉大な国民詩人たちが、ロマン主義の時代に生きたということにも注目したい。
　ロシアのロマン主義文学は、ヨーロッパ諸外国の強い影響下に始まる。そして1825年に若い貴族将校たちによる立憲政治を求めて行なわれたデカブリストの乱が圧されると、哲学的傾向を強めていく。ドイツのフィヒテ、ヘーゲルなどの影響は絶大であった。そのロマン派哲学の理想主義の影響を受けつつ、リアリスティックな描写方法へと移行していく。
　リアリズムの出発は、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、ゲルツェン、ネクラーソフ、ゴンチャーロフ等によって検閲という言論の自由が狭められていく中で始まった。しかし、検閲を取り入れたニコライ一世の治世が終わると、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイという大作家たちによるロシア小説の黄金時代がやって来る。検閲という恐ろしい抑圧の中から始まる金の時代は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に至る時代まで続く。
　ロシア文学の根底に流れているものは、自由な考察による、自由な思想を表現するという、人間の基本的な、あまりにも当たり前過ぎる欲求ではなかろうか。我々は、検閲などの困難な壁を越えて現われた作品を読んだときに、もちろん作品自体の出来に感動するだろう。そして、その作品を生んだ著作の並大抵でない、書くことへの、自分を主張するパワーを感じ圧倒される。現在ではソヴィエトの時代からロシアの時代になり、ソルジェニーツインのように不屈の精神を見せた作家もいる。第２のロシア小説金の時代は近いかもしれない。　［目次に戻る］

第12章　トルストイとドストエフスキー

（３年）　===406G

　明治以来、ロシア文学は人生論の教科書的存在として日本人に受け入れられ、日本の作家たちではロシア文学に夢中にならなかった人は少ない。生きることの意味を文学によって教えられるという発見は衝撃的であり、特にドストエフスキーとトルストイの文学はその代表でもあった。
　ロシア文学の歴史をたどっていけば、死のテーマは中世以来、ロシアの作家をつねに引きつけてやまなかったということがわかり、トルストイもドストエフスキーも死の描写や死に対する恐怖の描写がきわめて多い。トルストイの作品の魅力は、人間の生きる喜び、悲しみをいきいきと描いているところにあるが、彼が「死」をどのように描いているかという視点から作品を読み直してみれば、生の力の横溢の他方の極に、ついでに凋落への恐れ、死の恐怖が位置していることに気づく。
　トルストイとドストエフスキーを比較対照したロシアの作家メレシコフスキーは。「トルストイにとっては生と死の永遠の対立のみがある。ドストエフスキーにとっては、生と死とは永遠に一つである」と書いている。トルストイは生の力への本能的な陶酔に逆らって、死を意義づけ合理化しようとしたのに対し、ドストエフスキーにとっては、生と死は相互に転換しうるものとして、切り離しがたいものとして常に共存していた。このようにこの２人の作家は対極にあるように思われ比較されてきた。メレシコフスキーの比較論では、霊と肉を調和したプーシキンを継ぐ者としてトルストイとドストエフスキーが現われ、トルストイは肉の洞察者、ドストエフスキーは霊の洞察者として、プーシキンにおいて調和されていたものを分有しているとして、二元論が展開されている。
　バーリンは、ロシア文学の両極をプーシキンとドストエフスキーにおき、トルストイをその中間に位置づけた。スタイナーは、トルストイを千年至福説の立場にある人として、ドストエフスキーを現世の物質的変革の精神的欠陥に対する批判者として対照させている。　［目次に戻る］

第13章　女性について

（３年）　===409B　（未提出）

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第14章　「銀」の時代からアヴァンギャルドへ

（３年）　===410E

　１９世紀後半から２０世紀初頭にかけて、ロシアは、様々な分野における文化の開花の時期を迎えた。「２０世紀ロシア・ルネサンス」と呼ばれたこの時代は、1880年代の、文化面における「苦難の時期」から脱した、文化の復興の時代でもあった。
　それまでの、ロシアの社会に浸透していた功利主義、合理主義的な傾向への反動として、美への関心、詩、哲学といった人間的精神価値を重視するという動きも生まれ、その結果としてあらゆる分野にまたがる才能を持った芸術家と、それを評価する能力を持った公衆に恵まれ、多くの有能な人材を世に送りだした。
　ロシア・ルネサンスは、日露戦争と第一次世界大戦、そして２度の革命という、社会や政治の激動の時代に訪れた。革命後、ソヴィエト時代に入ると、1917年以前の文化は全て古き悪しきものとされる傾向があって、客観的な理解や認識が妨げられることが多かった。
　文学も同様として、革命以前をロシア文学、それ以後をソヴィエト文学に区別すること一般的なのであるが、重要なことは、1917年の意味を問うことであり、古き時代を一方的に否定していた今までの見方が間違っているのである。
　ソヴィエト時代の文化革命とは、表現面の革新ということであり、古典的な手法をそのまま継承するのではなく、自由で主体的な表現を強調することにより、モダニストたちはこの時代にふさわしい文学や演劇、絵画等を生み出し、ソヴィエト文化革命を担った。しかしスターリン時代の狭いリアリズム論の下で、文化革命の功労者たちの多くが亡命、自殺、粛清、沈黙、転向を余儀なくされたことは、２０世紀文化の最大の悲劇であった。　［目次に戻る］

第15章　多民族国家

（３年）　===424E

　ロシアを「民族の牢獄」から単一のソビエト民族へと導くのにレーニン、スターリンは大きな役割を果たしたという記述がソ連時代にはあったが、実際はソ連でも様々な要素が諸民族を引き離す要因となっていた。
　１８世紀以来ドイツ人はロシア帝国の政治に多くの高官を送り出していた。第１次世界大戦でロシアはドイツと戦いながら、忠実な臣民と考えられていた彼らは監視されなかったが、第２次大戦中にはドイツ軍に占領されていた地域の９民族にスターリンによって「対敵協力民族」とされて、全住民に集団責任が科せられた。第２次大戦後、ドイツ人の公民権は回復されたが、スターリンによって廃止された共和国の復活には至らず、ソ連体制と一体化できなかった。
　第２次ポーランド分割により１８世紀末にロシアのユダヤ人は増えたが、公的には異種族として多くの抑圧を受けていたうえに、政府公認の組織的虐殺や略奪は頻繁に起きた。しかしユダヤ人の強い向上心は、知的文化的成長につながり、ソビエト初期には傑出した政治家を生み出した。帝政ロシア時代にはギリシャ正教に改宗すれば、市民権を得ることができたが、スターリンの時代になると革命家など多くのユダヤ人が追放、または処刑され、ヒトラーのドイツ軍侵入後は、250万人が殺されたといわれる。しかし、教育程度の高いユダヤ人が、今後の動向を左右する重要な要素となるのは間違いない。
　中央アジアにはロシア人と関係の深くない民族が多く、ソビエト革命により文化的に大きく成長した。また、他にないほど人種や言語が錯綜していつコーカサスのグルジア出身にはスターリンがいる。彼の諸民族に対する弾圧は先に述べたが、出身民族のグルジアは民族主義であった。
　その他にもソ連邦には百を越える民族があり、それらも同様に文化の抑圧や弾圧を受けた。一方で彼ら、特に１８世紀以降のユダヤ系民族の文化的、社会的役割は大きく、ロシアは他民族から最も利益を得た国であろう。　［目次に戻る］

第16章　ロシアとソ連

（３年）　===426B

　１９世紀末から２０世紀にかけて、ロシアにおいて文化的なルネサンスが起こった。ドストエフスキーに端を発するロシア思想は、２０世紀の世界文学に多大な影響を及ぼした。また「未来主義」とよばれる最初のアヴァンギャルド運動が起こるなど、ロシアは西欧諸国の先を行く文化を持っており、２０世紀的理念を先取りする社会主義革命が起きた。
　しかし、「社会主義の理念とその現実」の間には大きな落差が存在していた。ルカーチはフランス革命が「戯画化」しつつあった時に、革命的民主主義の中心であるブルジョワ階級の廃絶によって、階級社会に終止符を打ったのが十月革命とした。しかし、そのような「戯画化」はソビエト革命においても起きたのである。ソビエト革命は、筆者の言うところの「２０世紀のユートピア的理想の最大の表現」であり、スターリン時代には、その理想のみが重要視されたため、現実との間に落差が生じ、「戯画化」状況が生み出された。
　レーニンが「社会主義は、テクノロジーとプロレタリア独裁の統治の技術との結合」と述べたように、科学による近代化を図り、自然に根ざした空想的社会主義は、科学的社会主義の出現とともに軽視されるようになった。
　それに対して農村派の人々は、ロシアの文化の根源は農村にあるとして、科学や近代化といったものを強調する社会主義に抵抗した。しかし、レーニン死後、スターリンは独裁を始め、農村の集団化に反対するものを一掃し、レーニン時代以来の主な指導者は粛清され、文学においては特に厳しく統制されていた。このような国家の横暴な政治姿勢は、モスクワ公国、帝政時代にも共通するものだった。
　1970年代に入ると、社会的不正、不平等、帝国主義的対外政策がマルクス・レーニン主義の説得性を失わせ、人々は宗教に眼を向けるようになった。そして、ペレストロイカが施行時の共産党保守派のクーデター失敗が、ソ連に終止符を打つこととなったのである。　［目次に戻る］

第17章　２１世紀への展望

（３年）　===305B

　ロシアの文化は昔から鎖国状態であった。西方文化をまったくとり入れないわけではなかったが、大衆文化は抑えつけられ、未発達な状態であった。それがソ連崩壊により｢開国｣を迎えた。ロシア文化史上４度目の開国である。今回の開国は品のない大衆娯楽文化が批判されているが、それはロシア19世紀末文化の再現であり、ロシアの経済に見合う文化状況である。新しい文化の芽が出てくる可能性を秘めた文化状況なのだ。
　文化開国により西欧から多くの翻訳物が入ってきたが、ロシアは単純に西欧模倣をしているわけではない。西欧と肩を並べていたロシア・ルネサンス時代の伝統への回帰と、その伝統を引き継いだ亡命者達の発見が重なっているのである。回帰・発見の対象となる伝統は多彩であるが、その中でも最も重要なのは宗教である。1997年のモスクワ・キリスト救世主寺院の再建もその一端だ。
　ロシアルネサンスにおいてインテリゲンツィアの存在を忘れるわけには行かない。彼らは自らの社会と国に対する責任感を持ち、国の柱石の役割を果たして来た。民衆に裏切られ、粛清の的になり、それでも新しい社会を創ろうと彼らは努力を惜しまなかった。しかし、彼らが望んだ社会は生まれず、ただ混乱と混迷が残った。彼らの努力は無駄だったように思えるが、そうではない。彼らの努力、反体制的、非公式的芸術家の抵抗の蓄積こそが、現在開花し始めているロシア文化を創ったのである。もう一度インテリゲンツィアが立ちあがり、民衆も共に協力を惜しまなければ21世紀への楽観的な展望が見えてくるだろう。

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解説（桑野隆）　ロシア文化史を書くことの困難　

（３年）　===317F

　解説において桑野氏は、内からのロシアと外からのロシアが組み合わさり、より鮮明にロシアを浮かびあがらせる、と述べている。それは本書で著者が主としている比較文化的視点を受けている。良くも悪しくも特別視されているロシアに対し、著者はその昔からの文化の「常識」を批判し、修正をしている。
　本書では民族、女性、宗教、毛皮と言った様々なテーマをとりあげている。そこでは多くの具体例をあげ、その一つ一つは説得力にあふれている。ロシアに明るくない人でも理解しやすい、簡潔な文章である。桑野氏はこれを「ロシア小百科」と呼ぶ。基本的な事柄はもちろん、私たちが日頃のぞくことのないロシアの一面が、そこにはある。
　外からのロシア　－　外国人がロシア文化を語ることは難しいのか。桑野氏はこう問いかけている。

ロシアは頭だけでは理解できない
並の尺度では計れない　
ロシアだけの特別の体躯があるから　－　
ロシアは信ずるしかない

　この詩人チュチェフの詩を著者は次のようにとらえた。ロシアにはロシアに一番合った見方をしよう、と。ロシアの文化にならってその文化を理解しよう、と。だが逆に、文化は他の文化に照らし合わせてはじめてその意味を持ち、完全な姿を現わす、と思想家バフチンの言葉から述べてもいる。著者の見方は、後者に近い。だが桑野氏は、著者はその両方を兼ねていると考えたからこそ、この２つを対比させたのだろうと思う。
　文化には芸術や文学、日常のあらゆるものが含まれる。ソヴィエト時代、文化の位置づけが不安定であった。文化史をまとめるどころではない状態であったのだ。そして今ロシアではクリトゥロローギア（文化学）が勢いを見せている。文化史を語ることができるのは、個々の歴史と批判や評価が、積み重ねられてからなのである。　［目次に戻る］