<!--This file created 04.2.1 6:15 PM by Claris Home Page version 2.0J--><HTML><HEAD>   <TITLE>jesse37j</TITLE>   <META NAME=GENERATOR CONTENT="Claris Home Page 2.0J">   <META HTTP-EQUIV="Content-Type" CONTENT="text/html;CHARSET=x-sjis">   <X-SAS-WINDOW TOP=43 BOTTOM=758 LEFT=4 RIGHT=534></HEAD><BODY BGCOLOR="#FFFFFF"><P><CENTER><B><FONT SIZE="+2">カルチャーショック</FONT></B></CENTER></P><P ALIGN=RIGHT><FONT SIZE="+1">ジェシー　スウィッツァー</FONT></P><P>　私は、大学１年の時からずっと日本に来たいと望んでいた。私は毎年先生に、今学期は行けるだろうかとたずねていた。残念ながら私にはいつも、充分な日本語の経験もないし、単位も不足しているという理由がつきまとっていた。しかし、言葉や文化についての多少の知識は外国にその国の言葉を学びに行くときにはいいものであるが、それは行きの飛行機のなかでいい気持ちにさせてくれるだけだ、というのが事実である。いったんその国に行くと、それはまったく違った話になるのである。</P><P>　私はもともと、車の修理の部品を販売するグレディーやHKSといった会社で働きたいという理由から日本語を学び始めていた。私はいつも日本の道路で走っている見事な車についての話を雑誌で読んでいて、それが本当のことならなんて良いのだろうと思っていた。私はついに、大学同士の交流計画で、札幌大学で２００３年５月から１２月の８ヵ月を過ごすことを許された。実は私は、１年間の滞在を希望していた。というのは、３ヵ月でやっとその言葉に慣れ始めると聞いていたので、８ヵ月では短いだろうと思ったのだ。私は伝説の車の島へ行こうとしていた。そして日本語を必要としている企業への就職に近づくための大きな一歩を踏み出したのだ。</P><P>　私はしきりに検討し、もし自分が退屈になった時や、もし日本に自分の好きな歯磨きが売っていない場合に必要な物などすべてのリストを作った。持って行きたい物が非常に多くて、スペースは非常に少なかった。私は出発の前夜に荷造りを終えた。そしてそのとき初めて、カルチャーショックが本当に私を襲った。私はそのときまでは、友人と私の日常では普通だったあらゆることから離れて８ヵ月暮らすことに緊張を感じていなかった。私は行くのを止めるには遅すぎるのかとか、出発日を２、３日延ばそうかと自問し始めた。しかし、最後には落ち着きを取り戻し、これは過去４年間ずっと望んでいたことであり、ついにそれが叶うのだということを充分に理解した。私の恐怖は再び興奮へと変わり、荷造りを終えて寝た。私は、友人と寝ないで過ごした夜とも、車を走らせたりすることも、家でのパーティーもしばらくはお預けだと思ったが、今行こうとしている新しい地でもそれら全てを見つけようと決心した。</P><P>　私は両親とたっぷりと別れを惜しんだ。そして、緊張のあまり具合が悪くなっていたのだが、（大きすぎるシナモンロールを食べ過ぎたせいもあるだろう）、飛行機のシートに落ち着いた。１４時間の飛行は平穏なものであり、勉強をしたり、本を読んだりするための時間となった。</P><P>　私が日本に着いたのは日本時間の午後９時頃、アメリカ時間で午前７時頃だった。学校が始まるのは２日後であり、アパートに落ち着くようにと言われていた。私は突然パニックに陥ってしまった、というのはお金を両替してくるのを忘れたことに気づいたのである。私は友達から、１０００と書かれた紙幣を借りた。それはアメリカでの１０ドルほどにしかならないと思ったので、翌日食料雑貨店に行ったときは非常に不安であった。私は電子レンジで調理できるカレーとリンゴジュースを買った。会計の女性が「おかしい」と言ったのだが、この時私は自分が何年も勉強してきたことがうまく成果をあげていないことに気づいた。私は、彼女が私のことをおかしい、と言ったと考える以外の手がかりはなかったのである。私は部屋に帰り、そのあと１日中荷物の整理をした。次の日、私は今まで暮らしていたところとほぼ同じ大きさの新しい住まいの付近を散策してみることにした。ちょっと行ったところに大通やススキノといったような場所があることも私は知らなかった。私はローソンで私に何かを言いかける１人の男性と出会った。そしてその瞬間、「です」や「ます」といった言葉はアメリカで先生たちが教えるほど多くは使われていない、ということがわかった。「です」や「ます」という言葉を聞かないことに、そして、形式ばった話し方に焦点をあてないことに慣れるのには３ヵ月ほど必要だった。</P><P>　家に帰ると、すべての壁が迫ってくるように感じた。私は自分の母国語を話す人がいない外国にいる、すべての人が違って見える、私には友達がいない、そして車は道路の「間違った」車線を走っている。要するに私は孤独だったのだ。</P><P>　カルチャーショックとは、薬を飲んでどうにかできるものでもないし、友達の家に行って消し去ることもできない。一番の解決策は、できるだけ早くその文化に自分自身を浸すこと、そして、その文化は自分に合うように変えることはできないものだと気づくことである。私は、夜通し友達と車を走らせたり、目の届く限りの場所でハウスパーティーをしたり、暖かい季節には前庭の芝生でバーベキューをしているキャンパス通りを歩いたりするアメリカでの生活のような日々を送るつもりはない。私は私自身を変え、新しい環境を新しい生活として受け入れなければならない。</P><P>日本はアメリカとはとても違って独特な香りがあるが、すべての外国人は自分でそのことに気づかなければならないのだ。今ではハウスパーティーのかわりに友人の宏樹、ザック、そして美和と一緒に町中に行くし、それは私の故郷の町をぶらぶら歩くよりもずっとおもしろい。夏の間にたくさんバーベキューをするアメリカとは違って、日本には花火やたくさんのお祭りがある。日本には退屈なときにする何かがいつもあるのもアメリカとは違う。私は上海やソウル、バンコクといった国々に旅行したことがあるが、どんなものも夜に繁華街で目にするもの―大きな音を立てながら通り過ぎていくたくさんのスカイラインやシルビア―の準備にはならなかった。そして、ここが新しい自分の街なのだと思った。それを見て本当に私の表情は笑顔になり、「これもなかなか悪くないな」と思った。</P><P>　今、私はこうしてコンピューターの前に座って文章を打っているので、自分を日本に送り出してくれたことに対してアメリカにいる先生や両親にありがとうと言えない。私はまた、最初に到着したときには世界の終わりが近づいているとも思ったものだ。しかし、カルチャーショックとは、すべての人が経験するものだし、だんだん―前よりずっと―よくなっていくものなのだ。私は世界中のどんなものとも今の生活を取り替えるつもりはない。もちろん家が恋しいのは確かだが、家は恋しくなるものだし、そうでなければ、それはホームシックとは言わないだろう。</P><P><CENTER><HR><A HREF="../37english/topics37.html">Topics</A><BR><A HREF="../index.html">Index</A><BR>　</CENTER></P><P><CENTER>　</CENTER></P></BODY></HTML>