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近代哲学入門 4月15日 講義内容:心身問題とは何か?(序論)

今日から4回にわたって「心身問題 mind-body problem」という近代哲学のテーマの背景を、おもに「自然 nature」というキイワードに即して講義します。

今日はその1回目「心身問題」の概略。
まずは「心身問題」という用語を簡単に見ておきましょう。(哲学辞典などで「心身問題」というのを調べると、やたらとメンドウな説明が出てくるかと思います。ここでは少し安易な方法ですが、WEBフリー百科事典「ウィキペディア」を検索してみます)

ーーweb辞書「ウィキペディア」の記事ーー

心身問題(しんしんもんだい)とは哲学の伝統的な問題の一つで、人間の心と体の関係についての考察である。この問題はプラトン(前427〜347)のイデア論や諸宗教の「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能ではあるが、デカルト(1596〜1650)がファルツ王女エリザベトの疑問に答える形で書いた『情念論』(1649)にて、いわゆる心身二元論を提示したことが心身問題にとって大きなモメントとなった。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/心身問題)


WEB辞書「ウィキペディア」にはこのような説明がありました。
ここには「自然」というキイワードは出てきませんが、「プラトン(前428/427-348/347)」という哲学者の名前や、宗教における「霊ー肉二元論」とかいった言葉のあとに、私たちがこれからの講義を通じて勉強しようとしている「デカルト(1596-1650)」という、哲学史のうえではいわゆる「近代哲学」の創始者の一人と目される人物の名前、およびかれの著書『情念論』(1649:デカルトの死の一年前の著作)が出てきますね。
いまのところは、プラトンという哲学者のことや宗教(特に中世のヨーロッパにおけるキリスト教)等の点は無視して構わないと思います。

この記事からは、とりあえずは「心身問題」と呼ばれる哲学のテーマが「人間の心とからだの関係についての考察」だということがわかります。

 

【「心身問題」という哲学用語について】

ところで「心」や「からだ」が果たしてどんなものなのか? これは普段われわれが経験している対象なので、それほど難しく考える必要はないのですが、いざこの両者はどう関係しているか? ということになると、なかなかとらえ所のない、面倒な問題にぶつかります。

半年の講義の中でゆっくり見て行きますから、今すぐに結論を出さなくてもいいのですが、この問題(心身問題)、英語では「Mind-Body Problem」といって、もともとヨーロッパの哲学(とくにデカルト)から発生したテーマですので、まず最初に日本語の言葉づかい、というか「心身問題」という訳語を確認しておく必要*があります。
*日本語とヨーロッパの言葉のあいだには微妙なずれがありますので、西洋の哲学を勉強する場合には、「心」とか「からだ」といった場合にも、訳語を額面どおり受け取ると思わぬ誤解が生じることが少なくありません。


哲学の領域では Mind という英語は「心」とか「精神」と訳されたりするのですが、「心身問題」における「心=mind」は、どちらかというと人間の「考える」能力をさす言葉です。私たち日本人は「心」を「思考」に結びつけるよりも「感情」に結びつける場合が多いので、多少注意が必要です。mind という単語を英和辞典で引いてみると

1 [具体的には ] (身体と区別して,思考・意志などの働きをする)心,精神 《★【類語】 heart は感情・情緒を意味する心》.

2a [また a 〜] (感情・意志と区別して,理性を働かせる)知性,知力. 
といった説明があります。

後で説明しますが、私たちが日本語で一般に理解している「心」というのは「考える」という要素があまり含まれずに、むしろ「感じる」という要素のほうが強いのではないかと思います。したがって、これを「考える」ということに強く結びつけるのは多少不自然に思われる方も多いかも知れません。実際、大辞林は「心」を以下のように定義しています

?人間の体の中にあって,広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの。
(1)人間の精神活動を知・情・意に分けた時,知を除いた情・意をつかさどる能力。喜怒哀楽・快不快・美醜・善悪などを判断し,その人の人格を決定すると考えられるもの。「―の広い人」「―の支えとなる人」「豊かな―」「―なき木石」
(2)気持ち。また,その状態。感情。
以下省略

「心=mind」という語に関して英語と日本語にはちょっとした意味の違いがあるようですね。

 

【デカルトの言葉づかい:「心」と「からだ」】

さてこの言葉(心=mind)ですが、少なくともデカルトの用語法においては何かを「感じる」作用のことではなく、私たちが頭の中で「2たす2は4だ」とか「この橋を渡ればおじいちゃんの家へいける」といったように「考える」作用、つまり精神とか思考に近いものを意味する言葉です。

たとえば、全身麻酔をすると、たとえ身体の一部をメスで切られても「痛い」と感じませんね。変な言い方ですが「痛み」が「心」の方へ伝わってこないので「痛い」とは思わない。逆に普段の状態だったら、ちょっとした切り傷でも「痛い」と思う(日本語では「痛いと感じる」といった方が自然ですが)。この「思う」とか「思わない」という作用が mind* すなわち「心」の作用です(とくにデカルトの用語法では)。*英語でmindと「訳」されている言葉は、もともと L'a^me ("ラーム"と読む)というフランス語で、日本語では「魂」と訳される場合が多いようです。一方「心身問題」の「身」の方は、英語ではbody(フランス語は Le corps "ル・コール"と読む)です。人間で言えば、手足はもちろん臓器や器官を含め、私たちの身体を形作っている物質的な「かたまり」(確かに非常に複雑な"かたまり"ですが)のことです。

ただ日本語では「からだ」といった言葉を「物体」という意味には使いませんが、英語やその他のヨーロッパの言葉では、bodyというのは単に「からだ」だけではなく「死体」とか「物体」をも意味します。つまり人間であろうがなかろうが、物質的な「かたまり」であればそれがbodyなのです。取りあえず、「心身問題 mind-body problem」の「心 mind」と「身(体) body」という言葉、日本語の語感とは少し違った意味合いが含まれているということを押さえておくと、今後の話しが分かりやすいのではないかと思いますので、日本語と英語を比べてみました。


【心身二元論】

さて、上に掲げたWEB辞書にも出てくる『情念論』という著作ですが、デカルトはこの晩年の著作を通じて、いわゆる「心身二元論」を説いたとされるわけですが、実は、人間を「心」と「からだ」の2つに分ける考え方*は、デカルトにとっては、哲学を始めた最初のころからあった考え方で、この著作だけで主張されたわけではありません。ただ、この著書はデカルトがスウェーデンの王女クリスティーナの家庭教師として招かれた際に、心と身体の関係を「分かりやすく」説明しようとした著作だったので有名になりました。この「心身二元論」という言葉ですが、要するに私たちの住む世界や私たち人間自身のことをひとつの原理で説明しようとする哲学的立場を、一般的には「一元論」、ふたつの違った原理で説明しようとする立場を「二元論」と言い、デカルトの場合は「人間」という現象(体験)を「心」と「からだ」という二つの別々の原理で説明したので「心身二元論」といわれたりするのです。ちなみに哲学的立場には「多元論」という立場もあります。何れにせよ、私たちが経験する多様な世界(現象・経験)を説明しようとするときに、これを同じ原理で説明できない場合には「二元論」や「多元論」の立場がとられるということです。例えば石ころは「形」があって「触る」こともできるが、魂(もしあるとしての話しですが・・)は「形」もなければ「触る」こともできない。人間で言えば「からだ」には形があるのに「こころ」には形がないわけです。・・・しかし、もしどちらも「ある」(つまり人間という存在の中で共存している)としたら・・その「あり方」をどう説明したらいいのだろうのだろう?この問題を解く時に、「心」や「思考」を「物質=からだ」を説明する原理で説明しようとしてもうまくいかないのではないかというのが、後で見て行きますが、デカルトの行き着いた結論でした。
デカルトは、人間の「肉体=からだ」は、木や石と同じように形や重さを持っているけど「魂=こころ」の方(かれはそれも確かにアルと考えていました)には形も重さもない、そういうことを説明しようとして、結果的に「心身二元論」という立場に行き着きました。

「心身二元論」――多少難しい言葉ですが、それがどんなものなか、今のところは「どうでもいい」というと語弊がありますが、あまり難しく考えないで、「まあ、そういう言い方をするのね」ぐらいに考えてもらって結構だと思います。中身については、この後、極力やさしく解説しますのでご安心を。
このように「心身問題」というのは、人間を「精神(心)=mind」と「肉体(からだ)=body」の2つに分けて考えようとする、(主に)デカルトの立場(心身二元論といわれる場合が多い)を起源としています。その後、ヨーロッパを中心に、このデカルトの立場にたいする賛否両論の主張がたくさん出現しました。こうした議論が積み重なって形成された問題領域、それが「心身問題」であり、現代においても重要な哲学問題のひとつとなっています。

【今日の講義のまとめ】

■「人間=human being 」を「心=mind」と「からだ=body」という2つの原理から説明する立場が、近代の哲学者デカルトによって、明確に主張された

■「心=mind」と「からだ=body」をそれぞれ別の原理*で説明する立場はのちに「心身二元論」と呼ばれるようになった

■「心身二元論」に対するさまざまな哲学的立場(意見や学説)が哲学史の上に「心身問題」というテーマを形成することになった

■このテーマは現代においても哲学上の重要な問題として議論されている

*ここでは「心」のあり方と「肉体」のあり方は同じようには説明できないという意味。【次回】
次回から本論です。デカルトの人間観の背景になった「心身二元論」を解説する前に、デカルト以前の哲学者たちは「人間」をどんなものとして捉えていたか、デカルトはどんな点で彼らとは違った考え方をしたか・・といった問題を「自然」というキイワードに沿って考えて行きます。

【参考】

☆デカルト(1596-1650)はどんな哲学者?*デカルトが生きた時代に哲学者(Philosopher)と呼ばれる人たちは、今で言う、医者、数学者、物理学(自然学)者、天文学者・・・を総合したような人たちであった
デカルトについて知られていること

(たくさんあるが、ここではあくまでもトピックス)

*フランスの "ラ・エー" というところで生まれた
*父は法律家であった
*母はデカルトが生まれて13ヶ月目に死んだ
*母方の祖母と乳母によって育てられた
*父は息子を法律家にしたかった
*今で言う中学・高校時代(10歳から18歳まで)は、ヨーロッパで最高水準の教育機関(修道院と英才教育の学校を合わせたような機関)で教育を受けた
*大学では法律と医学を学んだ
*教育機関で学ぶことだけでは満足できずに実社会で学ぼうと旅へ出た(20歳)
*旅といっても、将校としてオランダの軍隊に「従軍」してヨーロッパの各地を見た(当時はプロテスタントとカトリックの間に長い戦争があった)
*従軍中のある日、自分が学校や社会で勉強してきたこと(つまりそれまでに彼が得た知識)を本当に信頼できる学問=哲学へと体系化するための「原理」のようなもの("われ思うゆえにわれ在り" というフレーズで有名)が、彼の頭に閃いて、その後一生をかけて自分の哲学を確立しようと決めた(23歳)
*哲学的考察の対象になったのは「神(真理の基準)」「自然(天体その他の物理現象)」「人間の体と機能(肉体と精神)」などである
*著作はあまり多くない。しかもこの時代の人としては、わりあい遅くから書き始めた(最初のまとまった著作は32歳の時の『規則論』、ただし22歳の時に『音楽要論』を書いている)
*カトリックの聖職者であり哲学者でもあった友人がいた
*この友人にだけ自分の居場所を教えて、しょっちゅう住み家を変えた
*オランダは彼の気に入った仕事(研究)場所=隠れ家であった
*コペルニクス(1473-1543)やガリレオ(1564-1642)と同様「太陽中心説=地動説」を確信していた
*宇宙に関する自説(地動説)を用心のために発表しなかった
*最晩年はスウェーデン王女の家庭教師をしたが、早起きと寒さがたたって肺炎になり54歳で死んだ
デカルトの主な著作
*『方法叙説』1637年(41歳)
*『省察』1641年(45歳)
*『哲学の原理』1644年(48歳)
*『情念論』1649年(53歳)

死後に出版された『世界論』など含めこの他にも著作がある。☆『情念論』を読んでみたいと思う人は
デカルト『省察・情念論』(中公クラシックス)中央公論新社 ; ISBN: 4121600339  価格1,500円(?) がお勧め

*上記書籍はネットでも札幌市内の書店でも買えると思います。
*大学生協に注文もできます。
*もちろん、大学図書館にもあると思います。(図書館には、中央公論社『世界の名著』というシリーズのうちの「デカルト」ほか、いくつかのバージョンがあります。どのバージョンで読んでもいいと思います)
〜なお同じ中央公論新社のシリーズで、デカルト 『方法叙説ほか』 があります〜

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