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4月22日講義内容「自然について考える1」

前回は「心身問題」の概略をお話しました。今回から「自然」をテーマにお話します。今日はその1回目(講義要項では「人間は自然をどのように見てきたか1:古代の話し」となっていますが、少し予定を変えて、私たちが日常的に使っている「自然」という言葉を考えるところから始めたいと思います。


【なぜ自然が問題になるのか?】

「心身問題」を考えるのに何故「自然」を問題にしなければならないのでしょうか?・・・結論から言ってしまうと、ヨーロッパでは、デカルトの時代になってようやく「人間はある点で自然の一部である」という(今日のわれわれにはアタリマエ*の)考え方がはっきりと主張されるようになって、そこから、人間を精神と肉体の2つの違った原理で考えようとする立場(これを心身二元論と言いいます)が生まれてきたからです。
*アタリマエだとは思わない人もいるかも知れません。今日でも「人間は自然には還元できない何か特別なものだ」という考えを持っている人はたくさんいます。一般に、霊魂の存在を信じる人たちは、「魂」は単純に「自然」の一部であるとは考えないようです。また、人間を含め「この世に存在するもの全て」が魂を持っているという考え方(哲学ではこれを「汎神論」と言います)もあります。この場合は、人間だけではなく、動物はもちろん、木や石や水もまた「魂を持った自然」ということになります。このあたりのことは先で詳しく見て行きます。

【自然とは何かを考える】

まず「自然」とは何かをごく素朴な視点で考えてみましょう。
山や川はわれわれに身近な「自然」です。また雨や風も日常われわれが体験している「自然」現象です。そういう自然の中で人間が生きていると言う事実自体は、今も昔もあまり変わっていません。
ただ、この「自然」をどう見ていたかという点になると、古代の人々***と現代のわれわれには大きな違いがあるように思われます。その違いは何でしょう。***哲学史で「古代」というのは、紀元前6世紀ぐらいから2〜3世紀頃までの時代を指します。それに対して「近代」というのは、大体15世紀から19世紀ごろまでの時代だと考えて良いと思います。(「古代」と「近代」に挟まれた時代は「中世」:3〜4世紀から13世紀、但し狭い意味では10世紀から13世紀ごろ、「中世」から「近代」への過渡期:14世紀〜15・6世紀を「ルネサンス」、20世紀から今日までを「現代」と言ったりしますが、但し、これは大まかな分け方で、視点によって区分の仕方は大きく変わります)。
それを考えるためには、そもそも自然とは何かと言うことがはっきりしていなければなりません。とりあえずは、私たちが日常的に感じている「自然」の特徴を考えてみましょう。

【自然とは何か】

あえて自然とは何かと問わなくても、私たちはそれを実感していますが、それをどんなものか説明せよと言われると少し戸惑うかもしれません。「自然」という言葉から連想できるものを具体的にあげていったらきりがありません。山は自然である。風は自然である。・・・・それでは自然(一般)とは何か?といわれたらなんと答えたらいいのでしょうか?
たとえば「あるがまま」のものが自然といわれているものだ、と定義してみても、いったい「あるがまま」とはどういうことか? という問いに答えなければならなくなり、問いばかりが出てきて、結局何もわからないという結果になりかねないのです(『広辞苑』には1/おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。といった説明があります)。
そこで、自然とは何か? と問うのではなく、逆に自然とは何でないか? と問うてみることにします。そうすると、たとえば人工的な生産物、自動車とか、映画とか、家とかは自然ではないということになります。要するに、この視点では、人の手が加わっていないものが「自然」で人間の手が加わったものが「自然でないもの」です。
ところで、人間は、自分の周りの世界を「観察」したり「加工」したりするという点では、他の動物達に比べるとあきらかに、規模からいっても質から言っても異常なほどの発展を遂げ続けています(原子力の利用とか、宇宙の探索、日常生活の機械、情報化などを考えれば、他の動物達との差は歴然としています)。「加工」という点にだけ注目すれば、自分の周りの世界は人間が手を加えないうちは「自然」です。森に生えている「木」は自然ですが、その木を加工してできた「製品」は自然ではありません。
しかし、「加工」するといっても、たとえば紙の材料になる繊維を植物から採って、水に溶かし、それを漉(す)いてできた紙はどうでしょう。人の手が加わっているという意味では「自然ではないもの」ですが、たとえば、感熱紙と和紙を比べたら、和紙はなぜか「自然」の中に含まれるのではないかという気がしてきます。もともと自然にあったものが、ある工程を通して姿を変えただけで、人工的に付加された化学物質を含んでいない(感熱紙のように)という点では自然物のように感じるのではないでしょうか。
「加工」つまり人間の手が加わっているかいないか、という基準は「自然」を考える上で、確かに重要な視点ですが、加工という点だけで自然を定義しようとしてもうまくいかないようです。そこで、森からとってきた植物はもともとは「生きて」いたけれど、採取され加工された後には「死んで」いるので、もはやそれは「自然」ではない、という視点をとってみましょう。
紙の原料になる「木」は生きていますが、「紙になった木」は死んでいる。死んでいるものは「自然」とは言えない、というのがこの視点です。この立場からは「自然」=「生き物」という結論が得られます。「自然は生きている」というわけです。なかなかよい「定義」ですが、それでは同じ森にある岩や土、それに大気や光・・・こういうものも生きているのでしょうか? 
比喩的には「生きている」といえる場合がありますが、一個の「石」が生きている・・・ということになると、これはもう「生きてる」という定義があまりにも広くなってしまい、そもそも自然とは生きているものだという主張それ自体が意味を成さなくなってしまうでしょう(生物とは何かという問題は、この講義の最後の方で問題になるトピックですので、この問題については改めて考えることになります)。
「生きている」と「死んでいる」という区別で自然とは何かを考えてみようという試みも、半分は成功したものの、どうもうまくいきません。しかしこの直感的な評価には意味があります。なぜなら「生きてる」と「死んでる」という二つの言葉で、われわれはまた「動く」と「動かない」という自然界のある状態を評価しているからです。自然界には「動く」ものと「動かないもの」があって、生物は「動くもの」(=人間や動物、植物も場所を変えないけれどそれ自体は成長している)石や土は「動かないもの」(=石や土、光や大気)というわけです。
ここまで来て皆さんはどう考えますか? 生物が「動く」というのは当たり前(しかし生きている間だけ)だけど、石や土、光や大気が「動かない」というのはおかしいのではないか? という人がいるに違いありません。大気や海は "動いている" ではないか! 私もそう思います。
私だけでなく、これまで人類は「死んで」いるのに「動いている」もの=自然現象に興味をもってきたのです。これまで長いこと続いてきた歴史の中で人間はかなり以前から(いわゆる有史以来、おそらくは人間がこの宇宙に出現して以来)、「自然」がもっているこの二つの側面「生きている」と「死んでいる」、言い換えると「動く」と「動かない」という現象に深くかかわってきたのです。
これから勉強するデカルトの哲学は、実はこの問題に、ある「解答」を与えました。まだピンと来ないかもしれませんが、「心身問題」つまり、「考える」ことと「感じる」こと、あるいは「精神」と「肉体」というのは、どこが違って、またそれはどんな関係にあるのかという問題、じつは人間が「自然」をどのようにとらえるか? という問題に深く関係しているのです。

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