前回は「考える」ということの概略を見ましたが、今回はデカルトの主張にそってそれを検討します。
■われわれは日常的にいろいろなことを考えている
・今日は暑いな
・太陽がまぶしくて向こうがよく見えないよ
・どうもおなかの調子が良くないな
・肩が凝ってしょうがない
・昼には何を食べようか
・私はあの人のことが好きだけど向こうは私のことを好きかな
・このネックレス、1ユーロが135円だから・・・えーと、いくらになるかな
・「2たす2は4」が正しくて、「2たす2は5」が正しくないのはなぜだろう
・神様っているのかな
思いついたままに列挙してみましたが、われわれはじつにさまざまな「考え」をもち、またそれは毎回毎回「創造」される類いのものですから、それらをすべて数え上げることは当然できません。しかし、われわれの「考え」のレベルというか、さまざまな「考え」ががどんな範囲で、また何をきっかけに生じるのかを、分類・検討することはできそうです。デカルトの議論にそって、この分類を検討しましょう。
■思考は何を起源としているか?
われわれが普段「考えている」という、この活動をとりあえず「意識」ではなく「思考」と呼ぶことにします。思考は一体どこから来るのでしょう。いいかえると、思考のきっかけ、あるいは原因は何でしょう? これはひとまず、言語化されたわれわれの思考内容という点から検討する意外にありません。*)注
*)注 なぜならわれわれは「思考」を言語化してはじめて「思考」を経験できるからです。言語にならない経験(何か言葉に表せない感覚とか雰囲気とかが身体の中にあるといった場合)とか、いわゆる「無意識」の領域(フロイト[1895-1982]やユング[1875-1961]によって初めて詳しく論じられました)といったものは、言語化されなければ「思考」とは呼べません。
たとえば、上にあげた例に即して言えば、
1)「暑い」とか「まぶしい」というのは、自分の身体が直接体験している「外界」の物質に関わることです。この思考のきっかけは外界の物質です。
2)また「おなかの調子」とか「肩が凝る」というのは自分の体内に関することです。ただ体内といってもデカルトにとってはそれは物体(=身体)ですから、この思考のきっかけは体内の物質です。
3)それに対して「何を食べよう」とか「あの人も自分を好きかな」という場合ですが、たしかに対象はそれぞれ「食べもの」とか「あの人」という具体的なものなですが、太陽の「光」や肩の「凝り」のように身体が直接「感じている」ものではありません。この場合は外界にたいして自分の身体が反応しているというよりは、むしろ、自分がどんな行動をしたらよいかという "判断" ないしは "決意" からでた思考です。
4)さらに「2たす2は4」とか「ユーロを円に換算する」といった、いわゆる "計算" は、たとえこの活動が日常の具体的な事物に関係(たとえば「人数」の計算=二人と二人が一緒になると? とか「ネックレス」の値段の換算)していようと、その活動自体(つまり計算それ自体)は「数」という、実際には形も位置もないもの(つまり人やネックレスではない)に根拠をもっています。これは純粋に抽象的な思考です。
5)最後に「神」の問題ですが、これには多少補足的な説明を加えなければなりません。
■神とは一体何か?
われわれ東洋人にとっての「神」と、デカルトを始め西洋近代の哲学者たちの考える「神」とでは、それをどのようにとらえるか、または受容するか、という点で大きな隔たりがあるように思えます。
われわれの文化圏においては、たとえば「三角形の内角の和は二直角である」といった真理の創造者―それが神である、といった感覚は薄いのではないかと思うのです。しかし西洋近代の哲学者たちにとっての「神」は、何よりもまず、この宇宙に "数学的" な真理を創りだした張本人なのです。東洋人にとっても、神はたしかに真理の創造者です(もちろん神を信じている人にとっては、という意味です)。しかし、それは「数学的な」真理であるとは限らないというか、むしろ西洋近代的な意味での「合理的」な真理とはだいぶ違うのです(たとえば禅の思想)。ところが、デカルト、ガリレオ、さらにライプニッツといった近代ヨーロッパ哲学の創始者たちは、こぞって「神」というものを、合理的=数学的真理の創造者だと考えるのです。
■神の問題は一応保留にして、とりあえずはこれを「永遠真理」の問題として扱う
したがって、「2たす2は4」とか「ユーロを円に換算する」といった類いの、いわゆる合理=数学的な対象を起源とした思考は、少し乱暴な言い方ですけど、神に関する思考とほとんど変わりません。なぜなら「三角形の内角の和は二直角である」といった真理は即、少なくとも近代合理主義の哲学にとっては、神によって創造された真理であるからです。この真理は、物体のように「形」や「位置」をもたずに、それ自体がきわめて抽象的な対象です。デカルトにとってはこの種の対象は「永遠の真理」であって、その原因は神なのです。
神と言われるとなにか問題を複雑に考える人がいるかもしれません。しかし、こういっては何ですが、神であれ数学的真理であれ、それをどう呼ぶか(神?
永遠真理?)はこの際「どちらでもよい」ことなのです。むしろ問題は、われわれは、こういう抽象的な対象に対しても考えを巡らすわけで、上記のいくつかの思考レベルに、この種の思考を加えなければならないということです。この思考を「精神にだけ根拠をもつ思考」としておきます。
■思考には「物質的」なものにかかわるものと、まったく「物質的でないもの=精神」にかかわるものとの二つの種類がある
以上見たように、われわれの思考は、それが何を起源(きっかけ)としているかによって、大きく二つにわけることができます。
A)
身体の外にあろうが内にあろうが、とにかく物質を起源とするもの、デカルトはこれを精神の「受動」と呼びます。
B)
身体(デカルトにとってはそれは物質に過ぎないという点を忘れないでください)とは関係のない純粋に精神的なもの、デカルトはこれを精神の「能動」と呼びます(これも確かに存在するものです)。
上に検討した具体例(思考は何を起源としているか?の項)で言えば、1)2)がAに属します。4)5)がBに属します。
さてそれでは、3)、つまり身体が直接感じている(反応)しているわけではないけれど、起源は物質にあり、その処理は精神にあるような「思考」とは一体何なのでしょう? デカルトはそれをどのように考えたのでしょう? これがいわゆる「心身問題」の中核になる事柄です。次回はこの問題を取り上げます。
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