■前回確認した事柄
「思考」は「物の運動」と並んで、われわれが日常経験している基本的な事柄です。思考には、数学の問題解決のように純粋に精神的なものもあれば、物的世界に起因するものもあります。
デカルトは、純粋に精神的な思考活動を、「意志」あるいは「精神の能動」という言葉で呼んでいます。つまり精神自身にその起源がある思考です。
それに対して、身体が経験している物的世界が、精神によって受け止められた結果、われわれの行動や意識として生成するような精神活動を、「知覚」ないしは「精神の受動」という言葉で呼んでいます。
つまり精神が「物的なもの」の影響を受けることによって生じる活動です。この種の精神活動は、起源が物的世界にありながらも、その物的世界を何らかの形で精神的に処理している活動です。
この点に関しては 【参考資料3】「 すべてわれわれの認知の内容となるものは、事物または事物の変容であるか、あるいは永遠真理であるか、いずれかであると見なされる、ということ。ならびに事物の列挙。(哲学の原理_第1部_48)」をよく読んでおいてください。
この点に関して前回の講義(板書した部分)では、われわれの精神活動(板書では「思考活動」となっていたかも知れませんが、思考というとすべて抽象的な言語活動をイメージしてしまうので、これを「精神活動」と訂正してください)を大きく2つにわけて確認しました。
1:純粋に精神的な精神活動:数学の命題のようなもの=精神の能動
2:事物に起源をもちそれを脳が処理している精神活動=精神の受動
■「精神の受動」をさらに詳しく見る。
☆先週板書した思考の分類とその名付けかたに多少問題がありました(講義の後で指摘を受けました)。とくに「今日の昼は何を食べようか」といった思考を「判断」としたことによって誤解が生じたようです。広い意味では「判断」に関わることですが、ここでは、あくまでも思考の起源を問題にしていたわけですから「欲求」とすべきでした。訂正してください。
さてわれわれの精神活動を、以下の3点考えてみましょう
1) 事物の物質的変化を感じ取ることで生じる精神活動(知覚)
これは感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を介した精神活動:まぶしいな、おいしいな、痛い!etc.
2) 事物に何かの影響を受けて、この変化を心の状態変化として受け止める精神活動(感情)
これはこれは感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を介しつつもこの変化を心のレベルで受け止める精神活動:つまんないな、うれしいな、頭にくるな、etc.
☆デカルトは、さまざまな感情はすべて物資的なものが原因だと考えています。「頭に来る」といったことも、何らかの物的な刺激によるもので、例えば数学の命題のように純粋に精神的活動だとは考えないという意味です。
3) 体内の物的変化の影響を受けて、この変化を何らかの行動へ結びつけようとする精神活動(欲求)
これは感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を介しつつもこの変化を行動のレベルで受け止めるないしは命令する精神活動:おなか空いた、咽渇いた、etc.
☆散歩したい、映画みたい、といった欲求もこれに含まれるのかな?という疑問が残りますが、たとえばある種のリラックスを求める行動として「映画」や「散歩」があるのだとすれば、いわゆる「ストレス」が「飢え」や「渇き」に相当すると考える。
以上が精神の受動のうち身体運動に直接関わるものです。
われわれが普段考えたり感じたりしている事柄のうち、純粋に精神的な思考(数学の問題を解くとか、論理的な正偽を判断する)を除くならば、これら3種の思考は精神と物質の密接な「かかわり」によって生じる精神活動であるというのがデカルトの主張です。
(デカルトが『哲学の原理』:第1部_48で行った分類は順番が上記とは逆になっています)
1/欲求(上記 3 に相当)
2/感情(上記 2 に相当)
3/感覚(上記 1 に相当)
ではこの3種:「欲求」「感情」「感覚」のそれぞれは、なぜ「精神の受動」とよばれるのでしょうか?
デカルトが「精神の受動」と呼ぶものは、基本的に次のような流れで理解された作用(活動)です。
1/センサ(感覚器官)が内外の物理的運動変化に反応する、
2/物理的反応を脳(デカルトはこれを脳器官の一部である小な"腺"=松果腺に特定している)へ伝達する、
3/伝達内容を精神が処理する、
4/処理した内容をもとに身体を動かす(たとえば筋肉へ命令する)。
なお「感情」に関しては、これを「心の受動」として理解します。心の受動とは、身体が受け取った何らかの刺激を単なる身体運動(目をつぶるとか、散歩するとか、飯を食うといった身体運動=行動)へではなく、心理的なもの=気分へ帰着させる作用です。
どちらも、純粋に精神的なものから生じるのではなく(精神それ自体が能動的に働いているのではない)、身体を介して精神が影響を受けるという意味で「精神の受動」と呼ばれます。
■精神と身体を結びつける物質ないしは器官:動物精気と松果腺
さてそれでは、この「精神と物質の相互作用」を媒介しているのは一体何なのでしょうか? 実は、これは現代の哲学や科学にとってもなかなか解決のつかない問題のひとつなのですが、ここではとりあえずデカルト自身の解答を先に見てしまいましょう。デカルトは、
1)動物精気、
2)松果腺(脳室の中間にある小さな腺)
という2つの物質ないしは器官を精神に関係させることによって、これを説明しようとしました。
「動物精気」というのは、古代の科学(医学)が「生き物」を活動させている要因(この時点では物質とも魂ともつかないあいまいな存在でした)だと考えていた「精気」という概念です。デカルトは自分流にこれを解釈し直して「動物精気」は物質であって、これが体内を巡ることによって、精神と身体は互いに関係しあうと主張しました(図版参照)。
「松果腺」というのは、医学にも通じていたデカルトが、視神経を始めとして体じゅうに行き渡った神経が集約されていると考えた脳の一部分です。動物精気の流れはここでコントロールされます(図版参照)。
「自然とは何か」というテーマで行った講義では、心臓が身体の物理的メカニズムの原動力である点を見ました。デカルトにとって「心臓」は単に物理的な運動をになう器官です。それに対して「松果腺」は、いわば身体の制御装置となる器官です。また動物精気はこの制御作用を伝達する物質です。
心臓を原動力とする身体(機械)が、松果腺と動物精気の働きで、精神へ影響を与えたり、一方また精神の命令により、身体を動かしたりする―これがデカルトの考える、身体メカニズムです。
次回からは、心身問題のまとめを兼ねて、このメカニズムの問題点を考えていきたいと思います。
【参考資料1】
精神の機能は何か(情念論_第1部_17)
われわれのうちにあってわれわれの精神に帰すべき事柄としては、もはやわれわれのさまざまな思考しかない、ということはたやすくみとめられる。そして、われわれの思考は主として二つの種類のものからなっているのである。すなわち、一つは精神のさまざまな能動であり、他は精神のさまざまな受動である。
私が精神の能動と呼ぶものは、われわれの意志のはたらきのすべてである。なぜなら意志のはたらきは直接に精神から発していること、かつただ精神のみに依存するらしいこと、をわれわれは経験するからである。これに反して一般に精神の受動と呼んでいるものは、われわれのうちにあるあらゆる知覚、いいかえれば認識である。なぜなら、知覚を現にあるがごときものたらしめるのは多くの場合われわれの精神ではなく、かつ精神は知覚を、すべての場合に、その知覚によって表象されている事物から受け取る、のだからである。
【解説】
「精神」は「魂」とも訳せる言葉です。デカルトにとって「精神」は、「物体」と並んで、この宇宙に確実に存在するものです。またこの二つの存在の根本原因は神です。ここでは存在の根本原因(神)の問題はひとまず置いておいて、1)宇宙には「物体」(これは大きさと位置をもちます)があると同時に、「精神」(これには大きさも位置もありません)もあるということ、2)またこのふたつは人間においては、相互に関係しあっているということ、――この2点を確認しておきましょう。
簡単に言ってしまえば、宇宙に生きるわれわれは「物」も「心」も両方とも経験しているということです。しかし「心」の方は、見たり触ったり重さを量ったりできませんから、一体どこにあるのか? ということになりますが、「心」とは、とりあえずは、われわれが普段「思考している」という現実として経験しているもののことです。
ただし、少なくともデカルトにとっては、これはあくまでも精神(という実体!)の一つの現れ方であって、たとえば人間の脳の中に、ある種の物質のように存在しているものではありません。むしろこの脳に関与して身体に働きかけるものなのです。
「働きかける」と言うと何かわれわれの身体の外からこの作用がやって来るように感じられるかもしれませんが、デカルトはそういうイメージで語っています。「考え」が自分の内側からではなく、どこか別のところからやって来る、と言った感覚ですが、実際デカルトの主張に忠実に考えれば、そう理解したほうがよいように思われます。
ここには、日常われわれが「心」や「考え」という言葉を使う場合の用語法から見ると若干おかしなところがありますが、極端な言い方をすれば、デカルトの言っている「精神」は常にわれわれの身体に宿っているわけではなく、「精神」という存在(実体)がわれわれの身体に関与した際に、われわれ自身によって経験されるものなのです。われわれが経験する「精神」、それが「心」や「思考」あるいは「意識」と言われるものです。
ただ経験しているのは自分ですから、あたかもそれ(精神)が自分の中で発生し自分の中にとどまるように思えるわけです。しかしデカルトにとっては「精神(という実体)が私の中に生じる」ということを「精神も私が作ったんだ!」と考えるのは間違いです*。むしろ精神という実体が私の方へ関わるのです。
*)ただし、精神(という実体)の一つの様態と考えられている「想像力 imagination」というのは「私の中で生まれる=私が作る」ものだとされています。
いずれにせよ「精神」という言葉を、そのまま単純に、普段われわれが行っている「思考」と同一視しないで、あくまでも宇宙に存在する(デカルトの場合は "神が創造した"と言っている)実体としての精神が、「私」という限定された場所で経験されているときにはじめて、それを「私の思考」というかたちで知ることができるのだ**)、という見方をしなければなりません。
こういう事情で、この哲学者は「意志のはたらきは直接に精神から発していること、かつただ精神のみに依存するらしい」なんて、少し遠回しな言い方をしています。ここで精神といっているのは私に根拠をもつ精神ではなく宇宙(あるいは神)に根拠をもつ精神。デカルトが言いたいのは、どうやら私の思考はこの精神(という実体)に依存しているのだけれども、その実体は神であるから、私には究極的なことは言い兼ねる(私は神ではない)ということでしょう。
**)これが有名な「私は考える、だから私は存在する Cogito ergo sum.」というフレーズのなかの「コギトcogito
= ラテン語で "私は考える" という意味」です。
【参考資料2】
意志について(情念論_第1部_18)
われわれの意志のはたらきは二種類に分かれる。その一は、精神そのもののうちに終始する活動であって、たとえばわれわれが神を愛しようと欲する場合であり、一般にわれわれが物質的ならざる何らかの対象にわれわれの思考を向ける場合である。他はわれわれの身体において終始する活動であって、たとえば、われわれが散歩しようとする意志をもつということのみから、足が動き、歩くということが生じる場合である。
【参考資料3】
すべてわれわれの認知の内容となるものは、事物または事物の変容であるか、あるいは永遠真理であるか、いずれかであると見なされる、ということ。ならびに事物の列挙。(哲学の原理_第1部_48)
われわれの認知の内容となるものはどれも、事物であるか、事物の変容であるか、もしくは、われわれの思惟の外にはなんら存在を有しないところの、永遠真理であるか、いずれかであるとわれわれは考える。事物と考えられるもののうち、もっとも普遍的であるのは、「実体」「持続」「順序」「数」その他こういったもので、あらゆる種類の事物にかかわりをもつものである。しかし私は、事物の最高類としては次の二つだけしか認めない。一つは、知性的事物すなわち思惟的事物の類、いいかえると、精神すなわち思惟する実体に属する事物の類である。他は、物質的事物の類、いいかえると、延長をもつ実体すなわち物体に属する事物の類である。認知、意欲、そして認知と意欲とのもろもろの様態のすべてが、思惟する実体に帰せられる。これに対して、延長をもつ実体に帰せられるものは、大きさ、すなわち長さ・幅・深さにおける延長、形、運動、位置、諸部分の可分性などである。しかし、そのほかにわれわれは、たんに精神だけにも、またたんに物質だけにも帰せられてはならないところのあるものをわれわれのうちに経験するが、これらは後に適当な場所で示されるように、われわれの精神と物体(つまり身体)との密接な内的な合一に由来するものである。すなわち(第一に)飢えや渇きなどの欲求がそれである。次いで(第二に)感情つまり心の受動であって、これは、たんに思惟の活動だけからなりたつものではない。たとえば、怒りや喜びや悲しみや愛などの感情がそうである。そして最後に(第三に)、あらゆる感覚、たとえば、苦痛、快感、光と色、音、香り、味、熱、堅さ、その他の触覚的性質の感覚がそうである。
【参考資料4】
精神と身体はどのように互いにはたらきかけ合うか(情念論_第1部_34)
精神は脳の中心にある小さな腺のうちにそのおもな座をもち、そこから身体のすべての他の部分に、精気や神経や、さらには血液をも介して作用をおよぼすと考えよ。血液も精気の印象にあずかることによって、その印象を、動脈によりすべての肢体に運ぶことができるのである。そして、まずわれわれの身体の機能について述べられたことを思いだすとしよう。すなわち、われわれの神経の細い糸は、身体のあらゆる部分に行き渡っていて、ある身体部分において、感覚の対象によって引き起こされるさまざまな運動に応じて、神経は脳の孔(扉)をさまざまに開くが、このことによって、脳室に含まれている動物精気は、さまざまな仕方で筋肉へ入り込むことになり、そうすることによって神経は肢体を、それらが動かされうるかぎりのさまざまな仕方で動かすことができること。さらにまた、精気をさまざまに動かしうる他のすべての原因は、精気をさまざまな筋肉に入り込ませるのに十分であること。これらのことを思いだした上で、ここに新たに次のことを付け加えよう。すなわち、精神のおもな座である小さな腺は、精気を容れている二つの脳室の間につるされていて、精気によって、対象のもつ感覚的多様に対応する多様な仕方で動かされうること。しかし、この腺はまた精神によってもさまざまに動かされることができるのであり、精神はこの腺のうちに起こる多様な運動に対応する多様な知覚を受け取るという性質を備えているということ。また、逆にこの腺は、精神または他の何らかの原因によってさまざまに動かされるということのみによって、腺をとりまいている精気を脳の多くの孔(扉)のほうへおしやり、この孔(扉)は神経を通じて精気を筋肉の中へ送り込む、こうすることによって腺は筋肉をして肢体を運動せしめるのである。
【参考資料:図版】
7:熱の感覚を伝達する(動物精気)
24:眼球と松果腺
26:松果腺
33:目で見た矢を指が追いかける
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