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これまでの講義をとおして「自然とは何か」という問題を考えてきました。

普段は何気なく接している「自然」ですが、近代ヨーロッパの哲学者や科学者による数々の思索や実験を通して、自然は物質によって構成されたメカニックな運動体として理解されるようになりました。デカルトはそうした自然観(機械論的自然観とも言います)をつくった人の一人ですが、他方で人間の身体に関しても、それをメカニックな運動体としてとらえました。つまり「人間の身体=自然=機械」という図式を最初に完成した哲学者です。

しかし、誰もが理解しているように、人間というのはただメカニックな運動体=機械として存在しているわけではなさそうです。肉体は確かに物理的運動の原理によって支配されているかもしれませんが、われわれは肉体(身体)をもつと同時にまた「考える」存在でもあるのです。今回からはこの「考える」という点に焦点を当てて、デカルトという哲学者が人間をどのように理解したのかを見ていくことにします。

■今回もまた素朴なアプローチから

われわれは、たとえば石や光といった物質は「考えない」と思っています。それに対して、人間は「考える」存在だということを否定しません。人間というのは自然の一部としての身体をもつと同時に、また考える存在でもあります。

また、人間が考えるのだから他の動物も「考えている」のではないか、と思う人もいます。別の言い方をすると、人間以外の動物にも「意識」があるのではないかと思っている人たちも少なくないようです。そこでまず、「考える」とはどういうことかを見る前に、このあたりの問題をはっきりさせておくことにしましょう。

■「意識がある」ということは何を意味するのか

人間以外の動物も「考える」という主張には全く根拠がないわけではありません。犬や猫に「話しかける」と反応があるというのが大きな理由です。動物は人間の言葉そのものを使って会話することはできないけれど、こちら(人間)が言ったことに反応するように見えることから、むこうにも意識があると思うわけです。

ただこの場合、動物側からの反応がはたしてその動物が「考えた」結果なのか、それとも人間の言葉=声にただ身体的に反応(!)したのかはよくわかりません。言い換えると、ここで問題になっている「意識」というのが果たして、われわれ人間が日常行っている「考える」という行為と同じものなのかは、実際よく分からないのです。(いまはこの問題の詳細には触れません)

ところが、逆に人間の側は、動物の行動をみてそれを評価したり判断したりします。これは身体的反応ではありません。人間のほうは、犬や猫の行為を見て「ああこいつは俺の言ってることがわかってるな」とか「なんか悲しそうだな・・」とか考える(!)のです。人間の側のこの行動、つまり「考える」ことを単に身体的反応だとは言えません(つまりこの場合は、われわれは実は犬や猫の行動を「感じて」いるのではなく「考えて」いるのです)。

一口に「意識がある」とか「ない」とか言っても、この「意識」ということが「考え」とどう結びついているのか、また「感じる」こととはどう関係しているのかが分からなければ、この問題はなかなか解決しそうにありませんが、とりあえず、われわれ人間が「考える」といった場合には、それはいわゆる身体的反応のことではなく、たとえば「三角形の内角の和は180度である」とか「札幌大学へ行くにはこの道を通るのが一番早い」とかいった言語活動による分析や判断を指しているといって良いでしょう。

人間が「考える」といった場合、それは、たとえば、階段から落ちそうになってとっさに手すりにつかまる(捕まろうと考えてから捕まるわけではない)とか、大きな音を聞いて身をすくめるといった、動物にある(しかし石には無い)といっても必ずしも間違いではないと考えられる「意識」とは多少次元が異なるのです。

 

■では「思考」と「意識」はどこがちがうのか?

「意識」というのは定義の難しい言葉です。

まず「意識」という言葉を、上に見たように、外界の運動や変化に対する知覚作用の結果、人間や動物の脳内に起きる「変化」だとする見方にたてば、それはあくまでも「受動的」な活動です。その場合にはこれを「感知」といった方が分かりやすいと思います。

ただ日本語では「意識」という言葉を「精神的・心的なもの」全てに渡って使う傾向がありますので、ある場合は外界にたいする「感知」能力(受動的)のようなもの、ある場合にはそういう外部刺激とは独立した「精神的」な動き(能動的)を意味したりしますので、少し面倒なのです。

たとえば、飼い主が「お手!」といったら右または左前足を飼い主の手の上に差し出す犬の行為は、必ずしも「手」という言葉を理解しているから起こるものではなく、飼い主の声がそのような行為を誘導しているシグナルとして犬に伝わった結果だと理解することもできますが、この場合の「意識」というもは必ずしも、普段われわれが使っている「思考」という言葉と同一視することはできません。

その犬は「あんたは"手"と言っているけど、これは"足"なんだぞ、まあ、そう言っているんだから出してやろうか」などとは、考え(!)ないでしょう。

こういう意味での「意識」は、先程の例のように「大きな音を聞いて身をすくめる」といった受動的な反射行動をつかさどっている機能ないしはその能力(感知能力)のことを指しているのであって、たとえば「あの人は生きているけどもう意識がない」というのを「反応がない」と言う意味で使ったりする場合の「意識」がこれにあたります。

それにたいして「思考」のほうには、どこか「能動的」なイメージがありますね。なにか刺激を受けたからそれに反応する、といった行動ではなく、「昼休みは学食ではなく外のそば屋へ行こう」とか「何故こんな面倒な講義を取ってしまったんだろう」とか、もろもろの思考は、外部からの刺激が無くても、どこからともなく沸いてくるのです。また「今年の夏は絶対インドへの旅行を実現するぞ」といった意志というのも、外部からの刺激にたいする身体反応ではありません。

つまり、上で見たような意味での「意識」には受動的な側面がありますが、このように人間の「思考」には能動的な側面があります。

この「能動的」と「受動的」というのが、デカルトが人間の「心」と「身体」の関係を説明する場合のキイワードになりますので、心に留めておいてください。

■デカルトは動物は思考しないと考えた

さてデカルトは、人間と動物の違いを考えるに際して、まず両者の基本的な共通項を確認して、つぎに人間の場合の特殊性は何かを考える、というアプローチをとっているように思われます。

人間は、自然の一部として「身体」をもっていると言う点では動物と同じです。人間も動物も、目や耳や鼻や口、それにさまざまな触覚器官をもっているという点では(もちろん形状や性能の違いはあります)大差ないのです。(実はロボットなどの自動機械も同じ_これについては時間があれば後で述べます)

ということは、動物でも人間でも、外界の刺激に対しては何らかの行動をとることができると言うことです。上の説明では、こういう行動をとれる場合、それが人間であれ動物であれそれには「意識」があるという立場をとりました。

ところがデカルトは「意識」ということばをこのような意味では使っていません。かれの著作の中では「意識」ということばは、むしろ「思考」とか「精神」にきわめて近いものとして使われています。私たちも、たとえば「大きな音を聞いて身体をすくめる」といった行動を「無意識の行動」などと言ったりしますね。この場合は「意識」という言葉が「思考」とか「精神」に近い意味で使われているのです。

こういうわけで、用語上多少混乱を招きやすいのですが、われわれとしては、少なくともいまのところは「意識」という言葉を、外界の刺激にたいしてそれを感知する能力をふくむ「広い」意味で理解しておいて良いのではないかと思います。

ただし、たとえもし動物に「意識」行動があったとしても、それは「考える」という能動的な行動とは違うのだという点を良く理解しておかなければなりません。(そう考えない立場も可能ですが、少なくともデカルトはそう考えています)

次回から、デカルトの議論を詳しく見ていきたいと思います。

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