前回は「自然」という言葉をごく素朴な視点からアトランダムに考察しました。そこでわかったことは
1)「自然」は「人工」に対立している 2)「自然」は「生きている」ということに関連している 3)「生きている」ということは「動く」ということに関連している
4)「生きている」わけではなけれど「動いて」いるものがある.といった事柄でした。
今回はこれをもう少し系統立てて詳しく考えてみたいと思います。
まず、一番目の「人工」という問題です。
人間の周囲の世界に存在する「自然」は人間の活動(労働)によって「手を加えられて」来ました。おそらく人類最初の加工の営みは、現代のわれわれから見たら、ほとんど想像のつかないほど小規模・かつ原始的なもの(土器・石器・農具・・・の生産)だったに違いありません。
今日では、われわれの「加工」の規模は、宇宙空間のような広大な領域(たとえば宇宙ステーションの建設)から、分子生物学的な極小の領域(たとえば遺伝子の組み換え)へと進み、われわれはもはや単純に「自然」というものを語れない段階に来ているといえます。つまり人間の作ったものと、そうでないものの区別が、少なくとも「見かけ」のうえでは、つきにくくなって来たのです。クローン技術よって生まれた羊や牛は、正常の生殖によって生まれたそれと外見上は区別がつきませんし、いわゆる人工衛星は、大きさこそ小さいものの、月と同じように、地球の周りを回りつづけています。今ここでこれらの問題を深く考えたい人がいるかもしれませんが、ここでは、単に「自然」と「人工」が外見上区別がつかない時代にわれわれは生きているという点を確認するにとどめておきます。
次に「生きている」という問題。
われわれは、自分たちを取り巻く世界の中にあるものを、むかしから「生き物」と「そうでないもの」とにわけて考えてきました。生物と無生物と言い換えてもよいでしょう。人間や牛や木は「生きて」いて、石や光は「生きていない」ということです。常識的にはこの区別にはなんの問題もないと思います。ただこの区別は何に基づくものなのでしょう?
今日では「生物」を分子レベル(自己増殖する物質)でとらえて、そのメカニズムを解明していますが、デカルトが生きた時代には、まだ「生物」を分子レベルで考え、かつそれを実際に検証することはできませんでした。彼が著作活動をしていた時代(1600年の前半)の一般的な見方は、「生き物」には「魂」が宿っていて、それが体(身体)を動かす、というものでした。この考え方は、いまでも完全に退けられたわけではありません。ただ「魂」というのが一体何なのかは、この時代を含め、今日にいたるまで科学的に解明されたことはありません。この魂のことを「アニマ」といいます。これは、ある大きさや重さをもった物質ではないので「精神」(スピリット)と同じように考えられることもあります。触わることもできないし、その姿を直接見ることもできない「あいまい」なものです。人間や動物は魂をもっていてこれが体内に宿る間は「生き」、それがどこかへ行ってしまうと「死ぬ」といった考え方です。つまり生物の身体運動の直接的原因を、物質的なものではなく、霊的=精神的なものに求めていた時代が、デカルトの活動していた時代です。(ちなみに、魂を世界=宇宙に存在するすべてのものに認める立場もあります。そういう考え方を、「アニミズム」と言います。この考え方をとった場合には、人間や動物だけではなく、宇宙に存在するすべてのものに「魂」があることになります。)
ここでは、人間の活動のうち身体運動の原因は「魂」という非物質的なものにあるという考えが、中世から近代にかけては、支配的であったということを確認しておきましょう(ただ現代でもこのように考える傾向は終わっていないことは先に指摘した通りです。皆さんの中にもそう考える人がいるでしょう)。デカルトは、この支配的考え方にたいして、極めて斬新なビジョンを示しました。これは後で詳しく述べますが、このビジョンが示されたことによって、一体人間が生きているというのは、物質的なことなのか、それとも精神的なことなのか? という問題=心身問題が生じました。
次に、「動く」ということと「生きている」ということについて。
われわれの体は、意図するばあいも意図しない場合も含めて常に活動しています。基本的には、これらの運動を制御・監督している器官や物質(脳といった器官やホルモンといった物質など)の働きによってこの活動は維持されます。したがって、器官や体内の物質になんらかの障害があると運動も障害をきたします。おそらく人間以外の動物にも同じような仕組みが確認できるはずです。ところで、このような体の「動き」は、いわゆる「力学的」運動(たとえば石が転がるとか、水が滝になって落ちるとか、投げたボールが飛んでいくといった)とどこが違うのでしょう。
すぐに思いつくのは、石やボールはそれ自ら「動かない」、つまり他からの力が加わらないと静止したままであるのに対して、人間の体は「自ら」運動するという「違い」でしょう。簡単に言ってしまえば「自動」か「他動」かという違いです。自動であろうが他動であろうが「運動」の究極的原因は何か?という問題は解けそうにありません。それは森羅万象の原因を語ることと同じです(近代西欧の哲学者達はだいたい「神」をその原因として考えていました。神について語ることがここでの目的ではありません、この問題の考察は別の機械に譲ります)。
しかし、その原因はわからなくても、とくに人間や動物が(身体的に)活動するという場合には、先に見たように、なにか非物質的な原因(たとえば魂)を考えようとする傾向が存在します。別に「魂」といったとらえ所のない要因でなくとも、たとえば「意志」とか「衝動」といった、よくわからないけれど、とにかく力学的要因ではないものものが働いて、人間は自ら「動く」のだ、というわけです。このように、単に力学的な運動に還元できない、自動的な運動を説明しようとするとき、われわれは「生きている」という表現を使うのだと思います。実際次にあげるような運動を、ふつうわれわれは「生きている」とは言わないのです。
天体の運動と機械の運動
人間や動物のように「意図して」動くのではない運動の典型として天体の運動や電子の運動があります。われわれには「止まっている」ように見えても物質は運動しています。
この運動についても、古来人間はさまざまな原因を考えてきたようです。人間に宿る魂とは別に、物質自身の中に宿る「動力因」のようなものが考えられたこともあります。しかし動因が何であれ、われわれが歩いたり、口を動かしたりする運動と、いわゆる力学的運動は本質的に区別されてきました。いまここで、この「意図していないのに動いている」物質の本質を詳しく説明することができませんが、ただ、これらの運動が、本来は「自動」(天体は運動している!)的であるのに、われわれは、それをなぜ、自分自身の身体の運動のように考えないのか? つまりそれを「他動」的な運動だと考えるのか? という点に関しては理解しておく必要があると思います。
それは実は、われわれが「意識」をもっているという点に注目してみずからの「運動」(つまり身体の動き)を説明しようとするということから必然的に生じる区別なのです。人間は意識をもっていてるけれど、地球や月は意識を持っていないというわけです。したがって同じ「動く」ものでも、たとえば、人間の仕事を手伝ってくれる自動機械(簡単に言ってしまえば「ロボット」、ただし、水車や時計や自動車も基本的には自動機械で、これは結構古くからある)について言うときも、われわれはそれに意識がない(あるいは感情がない)という理由でそれを「生きている」とは言わないのです。
人間はたしかに「自然」の一部ですが、他方またこの「自然」を加工して自らの役に立つものを生産できる、きわめて能動的な「生き物」です。そういう活動を支えているのが、われわれの精神活動です。精神活動は単純に「意識」という言葉に置き換えることはできませんが、少なくとも人間においては「考える」ということと「動く」ということは、どうやら深く結びついているらしいことが推察されます。デカルトという哲学者は、これらの問題をどのように整理したのでしょうか、次回からそれを具体的に見ていきたいと思います。
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