■5月27日講義は前回(5月20日)の講義の続き_後半となります。
参考資料としてデカルト『情念論』の抜粋を掲げますので、ざっと目を通しておいてください。
肢体の熱と運動とは身体から生じ、思考は魂から生じる(情念論_第1部_4)
われわれはいかなる意味でも物体が考えるなどとは思わない。ゆえに、われわれのうちにあるすべての種類の考えは、魂に属すると信じるのが正しいのである。さらにわれわれは、魂をもたぬ諸物体が存在し、それらは、われわれの身体と同じくらいに、またそれ以上にさまざまな仕方で運動することを疑わない(経験はそのことを焔において示している、すなわち焔はそれだけでわれわれの肢体のどれよりもはるかに多くの熱と運動をもつ)。ゆえに、われわれのうちにある熱や運動のすべては、それらが思考に依存するのでない限り、身体にのみ所属すると信ずるべきなのである。
[解説]ここで「身体」と訳されている言葉は corps(仏)=body(英)、また「魂」と訳されている言葉は ame(仏)=soul(英)。「思考は魂から生じる」といっている部分はむしろ「思考は精神から生じる」といったほうが分かりやすいかもしれない(以下「魂」と訳されている部分は「精神」と置き換えて読むことも可能)。何れにせよデカルトにおいては魂(ame)は決してあいまいなものではなく、物体=身体(corps)とは別のあり方をしている実体の一つである。
魂が身体に運動と熱を与えると考えるのは誤りであること(情念論_第1部_5)
これによってわれわれは、きわめて大きな誤りを避けることになるであろう。その誤りには多くの人が陥ったのであり、それは私の見るところでは、情念やその他の魂にかかわることがらを、今まで十分に説明できなかったもっとも大きな原因なのである。その誤りとはすなわち、死体がすべて熱を失っており、したがって運動を失っているのを見て、魂の不在がこの運動と熱を消失させたのだと想像し、かくて、われわれの生まれながらにもつ熱と身体のあらゆる運動が魂に依存すると、誤って信じるにいたったということである。しかし事実は反対である。熱がなくなり、身体を運動させる役目をになう諸器官が壊れるからこそ、人が死に、魂が去ると考えるべきなのである。
[解説]古代の人たちが身体の活動原理を「魂」に求めていたことへの批判。身体はあくまでも物体として扱われるべきものであって、それを精神や魂と混同してはならないということを問題にしている。デカルトは「魂」あるいは「精神」の存在をそれ自身としては否定しないが、これらの「形や位置をもたない」存在(思惟実体)と、物体のように「形や位置をもつ」存在(延長実体)を全く別の存在として扱う立場(二元論)をとっている。デカルトは、トータルとしての身体活動、つまり肉体をもちつつ同時に思考もしている存在としてのわれわれ(人間)の活動は、一方が他方の原因になるという仕方ではなく、本質的に異なった二つの存在を何らかの形で統合する活動であると考えていた。
生きている身体と死んでいる身体との間にどんな相違があるか(情念論_第1部_6)
この誤りを避けるために、死は決して魂の欠如によって起こるのではなく、ただ身体の主な部分のどれかが壊れることによってのみ起こるのだということに注意しよう。そして、生きている人間の身体と死んだ人間の身体との相違は、ゼンマイを巻かれた一つの時計あるは同様の自動機械(自分自身を動かす機械)が、その目的であるもろもろの運動を維持している物理的原理を自らの活動の中に十全に備えている場合と、同じ時計あるいは機械が壊れてしまって、その運動原理が働かなくなった場合との相違に等しいと判断しよう。
[解説]ここで問題になっているのはあくまでも物理的に見た場合の「死」である。したがってここでは。たとえば魂の不滅とか精神の永遠性といったことが問題になっているのではない。もちろん「それでは死に際して"去る"といわれる魂はどこへ行ってしまうのか?」という素朴な疑問もある。デカルトにとっては、じつはこの「魂」は、時間や空間のなかに「位置」や「形」をもって存在するもの(物体=身体)とは、全く違う原理で説明されるものなので、そもそも「いついつに生まれて、いついつに死ぬ」といった時間的=場所的な解釈ができないものの一つである(これについては後述)。デカルトは単純に「魂」の存在を否定しているのではなく、それが身体活動の原因であるという見解を否定しているのである。
身体部分のすべては魂の助けなしに、感覚の対象と精気とによって動かされることが可能だということ(情念論_第1部_16)
われわれの身体の機構は次のようにできている点に注意しなければならない。精気の運動に起きるすべての変化は次のような働きをする。まず精気が脳にいくつもある扉のうちのいくつかを開く、次にこれとは反対に、そうした扉のひとつが、感覚神経によって普段の状態からみて大なり小なり開かれると、この変化が今度は精気の運動に影響する。そうすると精気は筋肉へと送られる。身体を動かすための筋肉は普段からこのような活動に応じて運動するのである。このように、われわれの意志と関係なく行われるすべての運動(たとえばわれわれは、意志しないで呼吸し、歩き、食べるといった、動物と変わりないあらゆる行動をする)は、われわれの身体構造と動物精気の流れ方(精気は心臓の熱によって駆り立てられ、それ本来の性質にしたがって脳や神経や筋肉の中を流れる)にのみ依存する。それは、ちょうど時計の運動がただのゼンマイの力と多くの歯車の形によって生じるのと同じである。
[解説]「精気」と訳されている言葉は esprits(仏)=spirits(英) で「動物精気」esprits animaux/
animal spirits と同じもの。ここではそれらが物質として扱われている点に注意する必要がある。「精気」というと「魂」に近いものと考えがちであるが、全く別のものである。デカルトにおいては、魂
ame/ soul は「位置」と「形」をもたない実体であるのに対して、精気 esprits/ spirits は物体の一つであり「位置」と「形」をもつ。ただし極小物質であるためわれわれ人間の目にはみえないとされた。今日の科学の言い方をすれば、神経細胞(ニューロン)内を流れる電圧のようなもの。デカルトは、われわれの身体運動があくまでも物体の運動原理に基づくという意味で動物精気の運動を感覚器官との関係で説明している。ただしわれわれの「思考」や「意志」との関係は明確に論じられていない。そこがデカルト哲学の難点だと評価される場合が多い。
参考文献:
デカルト『省察/情念論』中公クラシックスW21、中央公論新社 ISBN4-12-160033-9、1350円
なお同じシリーズで デカルト『方法叙説ほか』がある(こちらの巻に『哲学の原理』が収録されている)。この2冊でデカルトの主要作品を読むことができる。
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