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前回考えたことは

1)古来人間は自然の運動を「生き物」のそれと「そうでないもの」のそれとにわけてきた

2)「生き物」の運動は自動的(自分の意志で動く)であり、「そうでないもの」の運動は他動的(外から力が加わって動く)であるので、「生き物」には自らを動かす原動力のようなものがあると考えられてきた

3)「生き物」が動く(活動する)には原動力が必要で、それは「魂=アニマ」がであるという古代からの考え方は、デカルトの活動した時代にもなお支配的であった

4)意識は人間の行動に直接関係していると思われるので、意識が「生き物」と「そうでないもの」の違いを判断する基準になると考える場合がある・・・

といった諸点です。さてデカルトはこのような問題をどのように考えたのでしょうか? 簡単に見ていきたいと思います。

■身体の運動も物体の運動に還元できるということ

すでに見てきたように、自然界に存在するものは、生物やそうでないものも含めてすべて運動しています。この運動のことを広い意味での「変化」つまり「時間がたつと状態が変わること」と考えてもいいのですが、とりあえずここでは範囲を限定して、いわゆる「力学的運動」つまり「何か力を加えてやると、その作用を受けたものが動いて別の場所へ移動する」といった運動についてのみ考えたいと思います。

デカルトはこの力学的運動の原理を人間の身体運動のメカニズムに適用してしまおうという大胆な考えを持った最初の哲学者といっても構いません。どういうことかというと、われわれの身体運動(熱いものに触ったとき思わず手を引いてしまうといった受動的な運動から、ものを取ろうと思って手を伸ばすといった能動的な運動まで)は一見複雑なものに見えるけれど、すべては単純な物体の運動に還元できるという見方を示したのです。身体の運動といえども自然界に存在する物体と同様「すべての運動を支配している法則」にのっとっているという考え方です。

デカルトの発見した物体の運動法則には「運動量保存の法則」や「慣性の法則」など高校時代に物理学で習う事柄などがあります。それをここで細かに検討する時間はありませんが(興味のある人はデカルトの『哲学の原理』の後半を読んでください)、要するに、からだは自ら意志して動こうとも何かに動かされようと、運動という点ではいずれも物体が動くのと変わらないというのがデカルトの意見です。心臓の鼓動、筋肉の収縮や血液の流れといった無意識的な運動はもちろん、さらには「意志」したことを体の器官に伝えると考えられた物質(動物精気=エスプリ・アニモーと呼ばれました)の運動についても、物質であるからには同一の原理に支配されていると主張されました。

■肉体が物体であると見なされたことで原動力としての魂が否定された

さて人間の身体活動は、われわれが日常的に体験しているように、単純に肉体に還元することができない不思議な存在です。つまり体は単に機械的な自動運動をしているのではなく、むしろ「意識」や「感情」、もうすこし広く言うと「精神」が深く関係しているように見えます。デカルトはもちろんこの点を見逃していません。誰だって自分の体がすべて勝手に機械のように動いているとは思いません。われわれには意識や感情があって体の動きをコントロールしているのです。その意味では、デカルトも単純に「身体=自動機械」という図式を提示したわけではないのですが、問題は、われわれが「身体」と呼んでいるもの(body)の運動が物体(body)の運動と同一の原理で説明できるという点にあるのです。

これをもう少し一般化して言うと、身体(あるいはそれを形成している物質)は、宇宙に存在する物質と同様 "形"と"位置"をもっている実体*注)であって、こういう実体の動き(運動)は「意識」や「感情」といった "形も位置もないもの" (たとえば魂とか精神とか言われるもの)の活動と別個に考えなくてはいけないということです。こういう考え方を哲学史の上では「二元論 dualism」といいますが、二元論についてはあとで簡単に触れたいと思います。

*注)
この実体のことを「延長実体」と言います。それに対して"形"と"位置" をもたない実体のことを「思惟実体」と言います。実体というのは「ほんとうにあるもの」あるいは「それが存在するためにはほかの何かを必要としないもの」といった意味です。形のないものがなぜ「実体」と言えるのか?と言う疑問がわくと思いますが、デカルトはわれわれが普段経験している「考える」という活動形式(たとえば2+2=4という思考)もまた「本当にあるもの=実体」と考えているのです。

デカルトにとって、人間の身体は精神と肉体という全然性格の違うものが同居している一つの入れ物のようなものです。この入れ物は、一方で外部を世界にさらしながら、その一方内部にはさまざまなメカニックな活動を保持している「生きた」入れ物なのです。人間の活動はたしかに「意識」や「感情」といった精神活動と深く関連しているはずです。ただデカルトは、精神が肉体的な運動にどう関連しているかという問題(これがテーマになっている「心身問題」です)はひとまずおいておいて、少なくとも肉体=物質レベルでとらえられた身体は事物の運動とおなじ原理で扱えるということを示すことによって、人間を初めて自然の一部としてとらえることに成功したといえます。

地球が動く原理、風が吹く原理、川が流れる原理・・・こうしたものは個々ばらばらな原理によるのではなく、物体の運動という共通の現象に適用可能な一つの原理(!)の上に成り立っており、人間の身体といえども、それが物質でできている以上例外ではないということです。この「物体の運動」の究極原因をわれわれ人間は知ることができないかもしれません。しかし、能動的であれ受動的であれ、人間が「動く」場合、この活動はあくまでも自然運動の一様態であって、魂とか精神とかがその運動の「原動力」なのではない、ということをデカルトは示そうとしたのです。

■人間が「動く」場合の原動力は心臓の熱であって魂ではない

では人間は何を原動力に手足を動かしたり目でものをとらえたりするのでしょうか? デカルトはこうした活動の原因を身体の発動機関である「心臓」に求めました。今日の医学では、人間を「生かして」いる要因に関しては「心臓」よりも「脳」に重点が置かれています。身体活動を全体として制御している器官=脳によって、人が生きているか死んでいるかを決めようという考えが有力になりました(いわゆる「脳死」がそうです)。しかし今でも「脈」をとって生死を判断するというのはよく使われる判断方法のひとつです。つまり心臓が「動く」あいだ身体は運動しそれが「止まる」と運動も止まるという、今日のわれわれがふつうに受け入れている考え方の最初の提唱者がデカルトだったのです。

人が死んだかどうかを「魂」のあるなしで判断しようとしても、この「魂」自体がとらえ所のないものですから、生死の判断はあいまいなものになるでしょう。しかしデカルトは、心臓に蓄えられた熱と血流こそが人間の身体を運動させている原動力だと考えることで、ひとまず物理的な意味での「生死」には明快な答えを与えることができました。物理的な意味での「死」がつねに本質的な死を意味するとは限りませんが、とりあえず、現代のわれわれにも通用するごく自然な生命観(心臓が止まれば死んでしまう)の先鞭はデカルトによってつけられたといってよいのです。

ただしこれで人間という「生き物」の姿が明らかになったわけではありません。身体に密接に関連していると思われる「意識」や「感情」・・・大きく言えば「精神」や「魂」は一体どんなもので、これはわれわれの身体にどう関係しているのでしょうか? これが次の問題です。

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